座談会 「生きている時から懐かしい奴」

2002年10月12日(土)18:00〜

ゲスト  根岸吉太郎(映画監督) / 細野辰興(映画監督)

     榎戸耕史(映画監督) / 熊谷秀夫(照明技師)

司 会  白鳥あかね(実行委員長)

相米村に相米川!?
白鳥(司会):みなさんこんばんは。ようこそ「しんゆり映画祭」にお出かけ下さいました。私たちの友人であり、そして日本映画を代表する監督の一人であった相米慎二が亡くなって一年とちょっと経ちます。今日お招きしているゲストのみなさんは、相米監督とは非常にゆかりの深い方ばかりです。まず、相米さんの陰に榎戸ありといわれた、映画監督の榎戸耕史さんです。
−拍手と共に榎戸氏登場。
白鳥:次は熊谷秀夫さん。日本映画の照明の神様のような方です。
−拍手。熊谷氏登場。
白鳥:そして、根岸吉太郎監督。相米監督とはやはり助監督時代からのお付き合いで、親友でありました。
−拍手と共に根岸氏登場。
白鳥:
それから、みなさんがご覧になった『セーラー服と機関銃』、この映画では制作進行を努め、最近では『竜二Forever』の監督、細野辰興さんです。
−拍手。細野氏登場。
白鳥:
そして今日、飛び入りのお客様です。相米監督とは監督とプロデューサー、相米監督がプロデュースをして、10年前に映画監督初デビューを果たした柄本明さんです。
−拍手。柄本氏登場。
白鳥:今日は無礼講で、相米さんの思い出話をしたいと思います。映画監督として、あるいはその人となりなどについて、みなさんと楽しく時を過ごせればと思っています。榎戸さん、1976年ですね、『青春の殺人者』(監督:長谷川和彦)。
榎戸:そうですね、76年。
白鳥:そのときは制作進行?
榎戸:僕は制作進行でした。
白鳥:相米さんは?
榎戸:セカンドの助監督です。
白鳥:それからずっと26年間、「相米の陰に榎戸あり」。
榎戸:(笑)。 白鳥:というふうに噂されてきました。榎戸さんは監督になってからも、相米組ではなぜか水筒しょって、手ぬぐい首にぶら下げて走り回ってたという記憶があるんですけど。
榎戸:はい。
白鳥:この度出ました『映画芸術』、相米監督の特集号なんですけど、これを寝食を忘れて編集なさいました。榎戸さんは青森県の故郷に納骨に行かれたそうですが、相米さんの生い立ちをちょっと話していただけますでしょうか。
榎戸:相米さんのお家は、青森県三戸郡田子町大字相米上相米というところなんですけど、相米さんの村には相米家が一軒しかなくて、まぁ、領主みたいなかんじなんだろうなというふうに、お兄さんとか遺族の方からお話は聞きました。お父様は戦前、教育関係の仕事で中国に行ってらっしゃったらしいんですけど、戦後引き上げてきて、ちゃんと街に出て教育した方がいいんじゃないってことで盛岡に住んでたらしいです。相米村の方には夏休みとか、お休み中はずいぶん帰ってらっしゃってたみたいです。その後6歳の時に、釧路のちょっと奥なんですが、湿地帯の中にある標茶(しべちゃ)っていうところに移って、そこで高校時代ぐらいまでは育ってます。その後東京出てきて、長谷川和彦さんと一緒に日活で働いて、その当時に根岸さんとも一緒に仕事されたわけです。その後、日活の外に出て『青春の殺人者』っていう映画で僕は出会ったんですけども、僕がそばについていたときに、あまり喋る人ではなかったんですけども、断片的に話すことを聞いていると、そんなかんじでしたね。
白鳥:そうですか。「オレは相米村の相米だ」みたいなことはあまり。
榎戸:まぁ、変なことは言いましたけどね。相米村があるんだとか、相米川があるんだなんて。最初のうちはウソだって思って信じてなかったんですけど、ある時ちょっと地図を見たら、本当に相米川があったんでびっくりしました。
遠目で見詰め合う二人…
白鳥:熊谷さんは、今日みなさんに観て頂いた『セーラー服と機関銃』から、これから上映する『あ、春』まで、8本の映画を相米さんと一緒にやってらっしゃって、相米組のお父さんていうか、なくてはならない存在だったんですが、そんなに長く付き合えたわけは?
熊谷:うーん、いまだに僕もわからないんですけどもね。いつも相米さんに「なんで僕を使ってくれるんだ?」っていうと、「日活時代におもしろいおっさんがいたんで、その印象が強くて、それで使ってるんだ」って。亡くなった今でもほんとに聞きたいんだけども、笑いながらいつもそういう返事しかなかったですよねぇ、ええ。
白鳥:実際に現場ではどうだったんですか?ここのところをちょっと何とか、具体的な話はあったんですか?
熊谷:いや、全然ないんですよ。
みんな:(笑)。
熊谷:技術的な具体的な話はしなかったですねぇ。相米さんは、リハーサルが延々と長い人で、僕も長いのはもう諦めてるから、いつまででもリハーサルしてくださいって構えてるんですよね。で、長回しだから、テストから本番までの準備もかかるんですよ、各パートとも。照明のライティングも時間がかかるんだけど、人に聞かれると相米さんは「おっさんがまだやってんだ」っていう返事したらしいんですよ。それぐらい相米さんはじっと僕のライティングを見守ってくれたんです。僕もそれに甘えたというか、すっかり安心して仕事ができたっていう、そういう仲でしたね。時には狙い所とかあるじゃないですか。そういうときに相米さんは時々ぼやくんですよねぇ。「ここはやらないのか」「ここはやるのか」とかねぇ。こっそり話すんですよ。僕はまぁ、「ここはやらないんだよ」とか「ここはやるんだよ」っていうと、それで納得してお互いそういうカタチで仕事してたんですけどね、はい。で、あんまり側に行くとまた嫌がるんですよ、急かしにきたかっちゅうようなかんじで。だからもう、遠目でずっと見てるんですけどもね。
白鳥:両方で遠めで見合ってるみたいな、そういう仲だったんですね(笑)。

 

プロデューサー相米慎二
白鳥:柄本さんは今日の『セーラー服と機関銃』もそうですけど、やっぱり長いお付き合いですが、私の強烈な記憶では相米さんがプロデュースをやった『空がこんなに青いわけがない』という、非常に珍しい映画で、
柄本:へへへへへ(笑)。
白鳥:初監督をなさって、実はその現場に私も相米さんに口説かれてお付き合いしたんですけれども、プロデューサーとしての相米さんはどんな感じだったんですか?
柄本:相米さんが僕のとこ脚本持ってきたんですよね。サラリーマンの方が書いたんですけどね、田村和義っていう。お前これ読めって言われて読んだんですよ。そしたらすっごい面白くてねぇ。ビール飲みながら読んでたら、ビール飲むのが止まりましてねぇ。そいで読み終わって相米さんとこ電話したんですよ。「どうだった?」っていうから、「これすっごい傑作ですよ。だけど、こんなの映画にしても観る人いないよっ」て言ったんですよ。
白鳥:(笑)。
柄本:そしたら「お前これだったら誰が監督がいい?」って言って、ちょっと会おうって、そしたらお前やれっていうことになってアレしたんだけど。それであの、クセのある脚本ていうのかな、みんなが面白いっていう脚本じゃなかったんですよね。で、僕が監督になることになって、脚本がみんなに渡るわけですよね。そうするとみんな読み終わってさぁ、「あー・・・」っていう、なんかとにかく無言なんですよ。
白鳥:(笑)。
白鳥:柄本さんは今日の『セーラー服と機関銃』もそうですけど、やっぱり長いお付き合いですが、私の強烈な記憶では相米さんがプロデュースをやった『空がこんなに青いわけがない』という、非常に珍しい映画で、
柄本:へへへへへ(笑)。
白鳥:初監督をなさって、実はその現場に私も相米さんに口説かれてお付き合いしたんですけれども、プロデューサーとしての相米さんはどんな感じだったんですか?
柄本:相米さんが僕のとこ脚本持ってきたんですよね。サラリーマンの方が書いたんですけどね、田村和義っていう。お前これ読めって言われて読んだんですよ。そしたらすっごい面白くてねぇ。ビール飲みながら読んでたら、ビール飲むのが止まりましてねぇ。そいで読み終わって相米さんとこ電話したんですよ。「どうだった?」っていうから、「これすっごい傑作ですよ。だけど、こんなの映画にしても観る人いないよっ」て言ったんですよ。
白鳥:(笑)。
柄本:そしたら「お前これだったら誰が監督がいい?」って言って、ちょっと会おうって、そしたらお前やれっていうことになってアレしたんだけど。それであの、クセのある脚本ていうのかな、みんなが面白いっていう脚本じゃなかったんですよね。で、僕が監督になることになって、脚本がみんなに渡るわけですよね。そうするとみんな読み終わってさぁ、「あー・・・」っていう、なんかとにかく無言なんですよ。
白鳥:(笑)。

柄本:そいでこっちも初めての監督だから、被害者意識じゃないけど、あるとき相米さんに電話したんですよ、「これさぁ、この脚本、みんなわからないじゃない」って。そしたらあのオヤジがねぇ、また、いいこと言うんだよねぇ。「お前バカヤロウ、みんなが面白いと思って、みんなが面白がって創る映画の、どこが面白いんだ。いろんなヤツがいるから面白いんじゃねぇかよ」って、当たり前なこと言うのよねぇ。あ、どうもすいませんって。プロデューサーという仕事が僕はどんな仕事かよくわからないけども、結局あかねさんをよんだり、カメラマンはジミーですか。

白鳥:そうでしたねぇ、ジミーでしたねぇ。
柄本:柳島(克己)、あの北野(武)組のねぇ。それとか、あと配役としても三浦友和さんとかよんで。まぁ、僕も意見言うんだけども、監督初めてだったし、わからないから、そうやって集められたんだけど。で、できあがって、まだ客観的になれないんですけども、んーなんだろうなぁ、相米さんにやられたっていう、意味は変なんだけど、いい意味にも悪い意味にもなんかそんなことを思いますねぇ。
白鳥:自分の映画を撮るときにはあそこまで細かく気遣いしないんじゃないかっていうぐらい、いろんな人を集めてきたり、それも全部自分がいいと思う。確信犯でしたねぇ、この脚本でこれを柄本さんに撮らせたっていうのは。
柄本:まぁ、なんでボクんとこにきたのかよくわかんないけど。それと、ちょっと腹立つのが、早く撮れって言うんですよ。
みんな:(笑)。
柄本:「早くやれよほら、早くやっちゃえよ」って言うんですよ。これどう? 榎戸さん。
榎戸: 僕なんかも自分で監督したときに「お前ほんとにグズだな」「早く、なんでそんなにこだわってるんだ」みたいなことをずいぶん言われましたけど、けっこう本人はせっかちなところありましたね。ただ、自分の現場ではそういうものを絶対出さないというか、熊谷さんのお話じゃないけども、わりとこう、じっと見てるっていうか、監督としての自分がもう一つどっかにあるみたいなのはなんとなく感じましたね。
白鳥:自分の映画はどうしてゆっくりやってたんですかねぇ。
榎戸:どうなんですかねぇ? 熊谷さん。
熊谷:相米さんはちょっと優しいところがあるから、全部の気配りしてたんじゃないですかねぇ。急ぐと、まぁ俳優さんも急いでくるだろうし、スタッフも急ぐと、どっちかっていえば雑になってくるだろうし。それで黙って見守って、お前ら好きにやれっていうカタチで。そういうところやっぱり構えてた人なんじゃないですかねぇ。

「ぷっ」

白鳥:根岸さんは、日活に1970年に入られて、その時はもう既に相米さんはフリーの助監督として日活で仕事してて、神代(辰巳)監督の組にふたりで付いたりして、その後、ディレクターズ・カンパニーの創立メンバーにも一緒に加わったり、最後まで親友だったんだけども、助監督時代の相米さんはどんな感じだったんですか?
根岸:僕は相米とは1本しか、1本半ぐらい、1.75本ぐらいしか一緒にやったことはないんですけど、なんていうかなぁ、ものすごく組を選ぶ助監督で、自分の好きなところでは徹底的に準備してうるさかったんですよね。でも他ではサボりの名人でね。目立たないとこのパートにいる人間と仲良くなんのが上手いんですよ。
白鳥:例えばどういうパート?
根岸:衣裳部の、華々しく衣装を選んでいる人じゃなくて、隅にこう座ってね、着物の手ぬぐいなんか探さなきゃいけないとかっていうときにお願いする人とか。録音部さんの、録音部さんもそのころ日活はアフレコだったんで、現場には現れないんだけども、いろいろな効果音を担当するような人たちととか。でもだからなんていうか、映画の細々したものが映画を創るんだっていうことをね、ずっと言ってたような気がしますよね。それと、相米亡くなってからいろいろ話を聞いてると、次々と新たな側面が見えてくるんですけども、その中で、相米の追悼号でも「優しかった」っていうけど、優しいだけじゃなくて、かなりキツイ面もあって、僕なんかから見るとその振幅がものすごい激しい人間だったんだなぁっていうのが、確かめられましたね。
白鳥:私なんかはわりと優しい面しか知らないんですよ。騙されたこともないし。
根岸:どこか意地悪なところがあるんですよ、相米っていうのは。ときどきねぇ、いや〜なねぇ、人の一番痛いところをつくみたいなね。僕はたぶん助監督の上下関係だから、下にいるとね、あ痛ーって思ってるところをね、ずぶっとさ、いや〜な目でさ、言ってくるってところがあるんですよね。俳優さんなんか、いちばんわかると思うんだけど。
白鳥:柄本さんなんかそういう記憶ありますか?いや〜なところをぐさっと刺されたみたいなことは。
柄本:んーまぁ、いや〜なところをずぶっとというのは、ある人だよね。
根岸:「ぷっ」とか言うよね。
白鳥:「ぷっ」って根岸さんも言うじゃないですか。
柄本:そう。だから根岸監督がいろいろ言ったけど、あんたも一緒だろみたいな気持ち。
みんな:(笑)

ロマンポルノの時代に得たもの

 
白鳥:
細野監督は『セーラー服と機関銃』では制作進行だったんですよね。
細野:ええ、この世界入って2本目だったんです。1本目は今村昌平監督の『ええじゃないか』。壮年期の今村監督で、まだ52、3歳だったと思うんですけどね、すごかったんです、その指揮官的なイメージっていうのは。こういうことなら映画監督になるのは俺にはむりかもしれないと思ったほどでした。そこで2年過ごしちゃった後に森安(建夫)さんっていう、僕の今村プロ時代からの大先輩なんですけどね、森安さんに連れていかれて、そこで相米さんと会うんです。今村さんの印象がすごく強かったっていうこともあるんですけどねぇ、奇妙な生き物にあったなぁっていう感じがまずしましてね。でも、何故かホッとして、俺でも監督が出来るかもしれない。不遜にもそう思わせてくれる雰囲気が溢れてましたね、相米さんには。それがいちばん印象に残ってますねぇ。
白鳥:キャスティングの時に、細野さんが美輪明宏はどうだって。
細野:ええ、当時は丸山明宏ですけどね。製作進行である僕のこの一言で演出部と製作部で賛否両論、紛糾しましてね。
白鳥:あ、丸山明宏。そういうふうに制作進行がね、キャスティングにぽっと案を出せる雰囲気っていうのは、独特の雰囲気じゃないですか?
榎戸:そうですね。相米さんの現場は、できるだけみんなの意見をとろうっていうのがありましたね。自由に発言しよう、誰が何を言ってもいいんじゃないかって。で、なんか下手なことを言ってると「ぷっ」って笑われるみたいな。
細野:僕は『俺っちのウェディング』っていうのを「セーラー服と機関銃」の次やるんですけどね、カチンコで。
白鳥:根岸さんのですよね。
細野:なんなんだろうと思ったぐらいこの2つの組は自由でしたね。「自由な発言、大胆な発想」かなんかいってましたよね、当時。若さだけでは説明できない自由さでしたね。二人の資質だと思います。
白鳥:私は神代さんを何本もやってるんだけど、神代組がやっぱりそうでしたよね。みんなから何かないか、何かないかって意見募集して。で、やっぱり下手なこと言うと「ぷっ」って言われて、そのへんのところが似てるなぁ。
榎戸:根岸さんもきっとそうだと思うんですけども、日活のね、あのころ撮影所の中にある空気みたいなものを相米さんはどっかで好きだったんじゃないですかねぇ。みんなでいろいろごちゃごちゃやりながら映画を創るっていうことが。そういうことをすごく大事に映画づくりをしてたっていうのがとても印象深いですね。
白鳥:私は日活の初期からいるんだけど、あの1971年に日活はほとんど破産状態に追い込まれて、そしてロマンポルノをつくることを決めたときにですね、急に世界が変わったんですよね。今までいた石原裕次郎とか小林旭とかみんないなくなっちゃって、有名な監督もみんないなくなっちゃって。それでも映画をつくりたいという人だけが残って映画をつくったっていう雰囲気でしたね。根岸さんもちょっと言ってたけど、お金がなくて同時録音ができなくて、録音部に払うお金がなくて、それでサイレントで撮って後からアフレコして音をつけたっていう、そういう時代だったから、なんとかこれで生きていかなきゃいけないみたいな、必死な思いがあったっていうことは確かですよね。
榎戸:さっき熊谷さんがどうして相米さんが自分を使ったのかわからないっておっしゃってましたけど、「あのおっさん面白いんだよ」っていう話をね、何かの文章で読んだことがあるんですけど、山口清一郎の、あれは『恋の狩人 欲望』か『ラブハンター』か忘れちゃいましたけど、そのときの熊谷さんのライトの消し方が面白かったって。だから、そういう時代の映画つくりの中でね、技術的なことでも自由に映画的なことをやってる人たちっていうのをずっと観察してたんじゃないんですかねぇ。
白鳥:熊谷さんは私よりもっと大先輩で、しかも日活に来る前は大映ですよね。大映から日活にいらして、裕次郎、旭の映画をはじめ、そうそうたる映画に関わってきて、なおかつロマンポルノ時代にも仕事してらして。その当時、熊谷さんと一緒に仕事をしていた相米慎二っていうのはどんな感じでした?
熊谷:ロマンポルノの作品てねぇ、助監督さんはそんなに忙しくないんですよ、セット入っちゃうと。
白鳥:そうですか?(笑) 
熊谷:長谷川ゴジなんか夕方しか顔出してこないんですよ。助監督も1人か2人は動いてるでしょうけども、そんなに動くほどの仕事ないですからねぇ。相米さんもねぇ、よく照明部にねぇ碁を打ちにきてたんで、なまくらな助監督だなぁと思ってね。今までそんなことないじゃないですか、普通の映画の時は。
白鳥:根岸さんはゴジ(長谷川)や、相米慎二がさぼってた分だけ、被害を受けてたんじゃないですか?
根岸:いやでも、今考えてもねぇ、今の助監督さんの方が働いてますよねぇ。確かにロマンポルノの助監督はわりとゆったりと、だいたい監督もゆったりしてましたから。相米は曾根(中生)さんの助監督もやってたんですけど、曾根さんの時はちょっと忙しいんですよね、助監督任せだから。芝居も付けて、だいたいできあがりましたって監督に渡すと、監督がまた一からお芝居はこうやって付けるんだとか言って。最初から考えてるならねぇ、そうすりゃいいのにって思うんですけど。でも、今じゃ考えられない、そういう実践できるトレーニングがあったんだと思いますよね。いってみりゃできあがった俳優さんじゃなくて、どっかで捕まえてきたような俳優さんですからねぇ。そういう俳優さんを相手に右向けとか左向けとか、足触ったとき顔を苦しそうにしろとかね。そういう段階から始まってやるわけですから、って柄本さんも出てたけど。
みんな:(笑)。
根岸:俳優さん相手に、助監督が好き勝手に芝居を試せるっていうのかな。その延長をやりたいって気持ちはたぶんあったんだと思うんですよね。相米は最初のうちはわりと子供相手だったじゃないですか。子供ってのは達者でも、できあがってるわけじゃないから、いろんな要求に思いっきり応えようとするでしょう。だからそういう意味で、自分がゼロから役者と芝居をつくっていくことを目指してたんじゃないかなって思うんですけどね。それとあれだね、相米はずっと溝口(健二)好きだって言ってましたよね。1に溝口、2に曾根って。そういう意味で熊谷さんていうのは溝口組のルーツもかなり意識してるんじゃないですかね。
白鳥:ああ。
根岸:いつもカメラマン変えるのに、照明技師は一緒だなとか思ってたんだけど。もちろん熊谷さんがいろいろ持っているもの(技術)もあるけど、そういう「溝口組のルーツ」っていうかさ、そういうこともあったんじゃないかなと思うんだけど。
白鳥:熊谷さん、溝口さんの話を相米としたことありますか?
熊谷:あんまりないですねぇ。
榎戸:相米さんねぇ、シャイだからしないんですよ、絶対に。僕なんかにはチラッチラッと言ってますけど。日活では川島さんですよね。川島さんとも熊谷さんやってますから。そのことも相米さんの頭ん中にずいぶんありましたね。川島雄三も大好きですからね。そういうこともなんとなく、熊谷さんを選んでる理由にあるんじゃないんすかねぇ。
白鳥:なるほどねぇ
 

カードの出し方

白鳥:細野さんは相米さんに「おまえの映画面白かったよ」って言われたそうですけども、それはなんの時ですか?
細野:えっと『しのいだれ』が最初でしたけど。バッタリ街で会ったんですね。で、そん時に言ってくれまして。それはあの、なんか嬉しいことは嬉しいですけどねぇ、どこまで本気で言ってんのかなっていうね。
みんな:(笑)。
細野:これはちょっと眉唾じゃないかなとか。そう簡単には信じられないですからねぇ。でも、それからは試写会には必ず来てくれてましたね。
白鳥:『竜二Forever』は、観てもらうことは?
細野:あれは観てもらってないです。
白鳥:間に合わなかったんですね。
細野:ええ。「竜二Forever」が完成したのが相米さんが亡くなる2週間ほど前でした。公開も決まる前ですから試写もやってませんでしたから。残念なことをしました。相米さんがデビューした前後の、あの映画界を背景にした作品だったし。
白鳥:相米さんはお芝居も好きだし、オペラも好きだし、多趣味な人だったけども、柄本さんはお芝居を観にきてくれて何か批評されたことありますか?
柄本:そうですねぇ、まぁよく観にきてね、何を言うでもないけどね。細野さんの話じゃないけど、演出を褒められたことがありましたね。これもウソだかホントだかしらないよ。こっちも眉唾で聞きながら、でもやっぱり褒められると嬉しいからね、なんかねぇ、うん。
白鳥:やっぱり褒めるんですね。
榎戸:隠れてね、隠れて褒めてます。僕は柄本さんの芝居はずいぶん誘われて、行けなかったりすると「アレ、おまえ観といた方がいいぞ」なんて言われて、後から観にいったしたことありますよ。だから相米さんは特に柄本さんの芝居は好きだったんじゃないですかねぇ。けっこうちゃんと観てて、いいときは必ず言いましたね、「観ろ」って。
柄本:嬉しいねぇ、そういうの。
榎戸:でも、終わった後は何も言わないっすよねぇ。
白鳥:お酒飲みに行っても何も言わないの?
榎戸:ただお酒飲んで、何が旨いとか不味いとか、そんなことしか言いませんでした。
白鳥:食べ物っていえば、相米さんの食い道楽ってすごくて。根岸さんは相米さんの食べ物への執着っていうのよく見てると思うけど。
根岸:食べ物の執着はねぇ、確かにすごい執着ですよ。
みんな:(笑)。
根岸:量もね、机の上いっぱい、いろんなもの並ばないと寂しいらしくて。旨いもの探したり、遊び上手でしたよね。遊び上手で、たかり上手。映画ばっかり考えてるっていうタイプじゃなかったですね。そういう意味じゃなんていうのかな、昔の監督っていうの?昔、僕らがガキの頃、監督ってそういうもんじゃないかなぁと思ってたような。遊びもいろいろ、食い物にもうるさい、着るものにも何とかっていうね、そういうことも踏まえた上で監督をしてるタイプっていう。相米さんは人に寄りかかってそれを実現しようとしたっていうのかな。お葬式で相米さんのお兄さんとかお姉さんとかにあった時に、壇太郎さんがいみじくも「なんだ、家なき子かと思ったら、いい家族があったんじゃないか」って言ってましたよ。
みんな:(笑)。
根岸:それを誰にも見せずに孤児のように人に寄り添いながら、そういうものを引き出して。一回ぐらいはパッとね、ごちそうして。みんな言うんですよ、一回だけおごって貰ったことがあるって。で、たいてい誰に聞いてもその後具合が悪くなったって言うんですよ。
みんな:(笑)。
榎戸:でもあれですよね、札(カード)の切り方うまいですよね。例えば自分がごちそうするにしてもね、どのタイミングなのかとか。演出家としてのすごさもあるんじゃないですかねぇ。僕は「おまえはほんとに何も知らない」ってよく言われましたけど、「こういうのがいるんだよ」とか、「こういうのがそうなんだよ」とか、カードの出し方っていうのかなぁ、それは単純に経済だけじゃなくて、その人みたいなものを、まぁこっそり自分でネゴシエーションしてたんでしょうけども、そういう出し方みたいなのもとっても上手い人だったんじゃないかと思うんですけど。
白鳥:グリコのポッキーの宣伝の映画作ったじゃないですか。自分の助監督の若い人たちを一人ずつ監督やらせて。で、その人たちが今ちゃんと監督に育ちつつありますよね。
榎戸:自分でやるのは簡単にできたんだろうと思うんですけども、そうじゃなくて、向こうが楽しんでくれればオレがやらなくてもいいっていうのはあったんだと思うんですよね。『空がこんなに青いわけがない』の時も「俺たちがやっちゃダメだ」って、俺たちってオレも含むんだなって僕は思いましたけど、「俺たちがやっちゃバラバラになっちゃうんだよ、こういう脚本はなぁ」って、ずっと言ってましたね。それである時、「こういう脚本は、へそ曲りの柄本がいいかもしれない」って。
白鳥:柄本さんは監督してたときに、なんか悩んで相米さんに相談したりしたこととかあるんですか?
柄本:それはさっきの「この脚本、みんなわかんないみたいだよ」って話でさ。あと、ボクあの映画では、監督ラッシュッのときに倒れちゃって、救急車で運ばれた人間ですからね。
みんな:(笑)。
柄本:そしたらさぁ、すぐにさぁ、こういう人が(根岸さんの肩をたたいて)知ってるのよね。なんで知ってるんだろうって思うんだけど、知ってるのよ。「倒れたんだって?」って。アレやっぱり相米さんでしょ?そういうこと言うのは。
根岸:すっごい喜んでましたよ。
みんな:(大笑い)。
根岸:もう、ニコニコしながらねぇ、あそこまで監督やるヤツはなかなかいないよって(笑)。
柄本:それ以来ねぇ、新人監督で元気がいいと、腹立つんだよね。倒れもしないって。元気がよくって何が悪いっていうことなんだけど、なんとなくね、腑に落ちないんだよね。
細野:柄本さん、元気よかったんですよね?
柄本:いやー、僕ダメでしたよ。
細野:ダメだったの?
柄本:だって一番最初「物」撮ってるんですよ。物の時に「よーい、スタート!」って言ったら、ジミーさんから「あの、監督聞こえません」って。これがもう、プレッシャーで。
みんな:(笑)。
白鳥:柄本さんはもう、どんどん痩せてきて、髭ぼうぼうになって、そしてそのラッシュッていって撮影したものをスクリーンにかけてチェックのために観るんだけど、観てるうちにだんだん椅子からずり落ちてきて、私が「柄本さん大丈夫ですか?」っていったら、「大丈夫じゃありません」って。そしたら制作部が驚いて救急車よんじゃって、3軒先が消防署だったんで、ウーッて、病人はどこですかーってタンカ持ってきちゃって。私はでも、今まで付き合ったどの監督よりも純粋なんだなぁ、と思いましたけどね。
柄本:(大爆笑)。
細野:テーマが逸れてません?
柄本:いや、テーマはだから、そんとき喜んだ相米ですよ。

 


まだまだ見たかった相米作品、そしてこれから
白鳥:細野さんは、もし今相米さんにあったら何か言いたいことありますか?
細野:えぇ、いっぱいありますけどねぇ。やっぱり、『台風クラブ』以降って言っちゃ変ですけども、僕は以前の作品ほど触発される作品がなくなっちゃったんですね。もっともっと触発させて欲しかったっていうのが一番でかいんです。初期の作品、「翔んだカップル」から「台風クラブ」ぐらいまでは不埒な企みを持った作品多かったって気がするんですよ。云えば羊の皮を被った狼みたいな作品。それがだんだん不埒じゃなくなった、狼じゃなくなってきたっていう印象が僕にはあって、それが寂しくて寂しくてしょうがなかったんですよね。50代になってこれからホップ・ステップ・ジャンプでいうとジャンプでパワーアップした不埒な企みを持った作品をたっぷりと見せてくれると信じていたんです。だからジャンプがないまま逝かれちゃったなって気がするんです。そのジャンプをどっかで見たいなぁと。でも、それはしょうがないんで、まぁ生き残った我々がどこまでできるかみたいなことまでひっくるめてと思うんですけどね。その触発されたであろう50代の相米作品は、もう観られないんで、自分の中でどんどんイメージを膨らまして及ばずながら作品に活かしていくしかないんですけども、それを相米さんにやっぱり観てほしいなっていう感じもありますし。宿題を残されたという感じですね。
白鳥:根岸さんは、北に向かうとき、何かが起こるっていうことをインタビューで言ってますけど、それはどういうことでしょうか?
根岸:亡くなって以降にね、僕も実際に相米村に行ったんですけども、新たな事実が次々と、彼が隠ぺいしてたものが発覚してきてね。やっぱり彼の育ちとかいろんなものを見てくると、僕は相米のこと羨ましいなって思ってた部分もいっぱいあるんだけども、あの人格はなんていうのかなぁ、あの風土とね、あの家庭の中から生まれてきたもんだなぁってのがね、北で見ててすごく熟解っていうのかなぁ、急にいろいろわかってきたなぁってことがあったんですよね。で、やっぱり自分が育った青森、岩手、いわゆる南部藩のあの地域とかね、北海道っていうものに対する想いっていうのが、今振り返ってみるとあったんじゃないかなって思って。まぁそういう意味で、細野が言ったけど、ほんとに自分(相米)のルーツにもう一回踏み込むようなね、映画の題材がせっかくあったのにっていうふうには思いますね。相米の納骨に行ったんですけど、納骨って墓開けて骨壺を置くじゃないですか。そしたら坊さんがお経読みながら骨壺をひっくり返してざーって骨撒いたんですよ、墓ん中に。で、一瞬僕は東京の人間だから、なんなんだこれはと思って。
白鳥:東京は違うもんね。
根岸:うん。でもちょっとそのショックが治まってみると、あぁ、土に帰るんだなぁってね。で、その時に、今までわかんなかった部分が少しそっからさ、こう見えてきたっていうかな。今更見えてもどうにもなるもんじゃないんだけど、そういう気がしたんですよ。
白鳥:あの、柄本さん、この『映画芸術』にですねぇ、相米さんへの手向けの言葉としてね、「秘密男、アイマイさん、ハゲのバカヤロー」って言ってますけど、その心は?
柄本:いや、別に、その通りだったけど。へへへへへ(笑)
白鳥:熊谷さんはもし相米さんが生きていたら、将来どんな映画を撮ったと思いますか?
熊谷:まぁ具体的な作品はわからないんだけど、相米さん50歳過ぎて、10何本撮って、映画の酸いも甘いも、ちょっと僕は失礼ないい方をするけども、わかってきたと思うんですよね。やっぱ40代っていうのは力だけで映画を撮るっていうカタチであって、50代になって円熟じゃないけども、いろんなもんが省けてきて、これから力強い映画を撮るんじゃないかって、ずいぶん期待してたんですよ。で、僕自身としても相米さんには日本映画の巨匠になってもらいたい、なる人だと信じてたんですねぇ。本当に寂しいですよね。
白鳥:榎戸さん、「厳粛な死は厳粛に生きるための前提である」という言葉がありますけど、それは本人が?
榎戸:『台風クラブ』の三上くんが降りるときのセリフですよね。
白鳥:例えば、残された私たちはどうすればいいんですかね?
榎戸:僕は相米さんが亡くなって、生きるってことが相米さんの映画にはあったなと。映画を観たりとか、自分が参加してたときには観念とかその考えとかっていうことだけだったんですけど、亡くなってほんとにちゃんと生きるってことを自分で問いかけなきゃいけないのかなって。それはさっき細野が言ったように、自分たちが映画をどうするんだっていうことをちゃんと考えなきゃいけないって、改めて認識しなきゃいけないっていうのは強く思いましたね。
白鳥:短い時間でしたけど、私たちがこよなく愛してる相米慎二が、どんな監督だったかっていうのが、ちょっぴりおわかりになったと思います。やっぱり彼の作った13本の映画を、できれば全部見てほしいと思います。ではお名残惜しいですけど、時間が迫ってきましたのでここで終わりにしたいと思います。ゲストの皆さん、ありがとうございました。

 

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