座談会 「名画座から生まれた映画ども」 98年10月9日(金)18:40〜

ゲスト:小泉作一(元並木座支配人)、小林紘(元上板東映支配人)、鈴木昭栄(元池袋文芸坐支配人)、永島映子(女優)
司 会:箕輪克彦(市民プロデューサー)



 
  
箕輪:皆さん本日はご来場ありがとうございます。今日は先ほどもお話したとおり、「名画座から生まれた映画ども」と題しまして、だいたい80年前後の、名画座が映画を製作したり配給をバックアップしたりして、若手の映画作家を輩出しようとしていた時期、当時積極的に活動なさっていったご三方をお招きしてお話を伺いたいと思います。


名画座のKKS
 

今日お見えになっている熱心な映画ファンは、もういちいち文芸坐がどういう映画館だったとか、並木座がどういう映画館だったとか、そういった説明は要しないとは思うのですが、上板東映に関しては閉館してから15年以上経っているので、今の若いファンにとってはちょっと馴染みのない館名かもしれませんので、説明したいと思います。先ほど上映した『狂い咲きサンダーロード』の製作者でもあられるんですよね、小林紘さん(元上板東映支配人)は。その後83年に残念ながら閉館してしまったんですけど、その後は主に映画製作に携わってらっしゃるんですが、上板を一口で言えばアナーキーな映画館だったと、そう言っていいと思うんです。邦画の王道から外れた作品、今の大井武蔵野館にその精神が受け継がれているのではないかと思うんですけど、そういったような当時の若い世代の客層に非常に支持された映画館だったと思います。

そしてだいたい80年代前後、70年代末から文芸坐、並木座、上板東映が中心となって、自主制作というかご自分達で映画を作り出そうと、そういった経緯をまず伺いたいと思うのですが、まず小泉さん、そこら辺ちょっと簡単に触れていただけないでしょうか。
 

小泉:私は『戦争の犬たち』をプロデュースしたのですが、この事の始めは和光大学が母体になって、一本卒業の記念に映画を作りたいということで土方鉄人、飯島洋一君なんかが来られまして、私の方もそういうことは嫌いな方じゃありませんので、一つ、のるかそるか分かりませんけど、大学卒業記念なのに卒業出来ないというんで、6年も7年もいたんじゃ具合悪いんで、出来るだけバックアップしようというんで始まったことです。
 

箕輪:こちらに『戦争の犬たち』というポスターがあります。当時で5千万ですか、制作費が。
 

小泉:実際はそれはオーバーで、3千万くらいです。
 

箕輪:そうですか。ともかく自主制作映画としては破格のスケールで、今考えると素晴らしいキャスティングなんですよね。泉谷茂さん、安岡力也さん、たこ八郎さん、佐藤慶さんとか青木義郎さんなんかも出ていらっしゃる。戦争映画なんですけど、残念ながら興行的には外れてしまったんですよね。
 

小泉:ええ、そうですね。かなり赤字を出しましたけど、他にいろいろメリットがありまして、新聞、雑誌に取り上げていただいたり、放送関係でも宣伝してもらいましたので、私も原稿料もらったり、出演料をあちらこちらから戴きました。
 

箕輪:本当はこの『戦争の犬達』も今回上映したいと思ったのですが、3本立て、4本立てにする時間的なゆとりが無かったものですから、残念ながら今回は見送らさせていただいたんですが、折があれば是非映画祭でも上映できればなぁとは思っているんですけれども。

次に小林さんの方から、そこら辺のところをお願いします。
 

小林:先ほど小泉さんがおっしゃったとおり、あの時代にちょうど各大学の映画研究会がすごく燃えてたわけですよね。自主映画で主にミリを撮ってた時代でございます。『戦争の犬たち』の監督、飯島洋一さん、土方鉄人さんも並木座行ったり、上板行ったり、文芸行ったり名画座を愛したファンの人たちだったと思います。その時にですね、飯島陽一さんたちは「俺らはもう16ミリの時代じゃねぇんだ!35で撮るんだ!」とすごい剣幕でお話があったんですよ。そうこういっているうちに今度『狂い咲きサンダーロード』の石井聰互、日芸のまだ学生でございますが、彼らも飯島洋一、土方鉄人のみんなそういったサークル活動のグループの一員でございましたんで、それだったらおいらも撮ろうと。だけど金が無いから日芸の機材を無料で借りて、いかに安く撮るかということで、確か2枚ぐらいのぺらの企画書みたいなものを持ってきましてね、「小林さん、これを撮るんだ」と。「てむさんたちはどうも並木座で撮るんだよ」ということで、その時期にちょうど私も自分の映画館で自分の映画がかけられればいいなと一つ夢があったわけですよ。そういうのも今考えればむちゃくちゃな話だったんですけど。
そういう夢もありましてね、「よーし石井、やろうじゃないか」ということで、石井聡互と、大矢竜二という石井聡互が『高校大パニック』という8ミリ版を撮った時のプロデューサーの二人に、16ミリの『神の堕ちてきた日』を大矢竜二に撮らせまして、次に石井聡互が『狂い咲きサンダーロード』を撮るという体制になったわけです。そんな感じで燃えてた時代でございますね。
 

箕輪:どうもありがとうございます。
それでは文芸坐の鈴木さんお願いします。
 

鈴木:文芸坐の鈴木です。私たち、小泉さん、小林さん、鈴木と申しまして、その頃の70年代から80年年代にかけての名画座のKKSと言われまして、KKSトリオと言われていました。金持ちの小林、生真面目な小泉、スカの鈴木でございます。私はスカというくらいですから、とても3千万かけて映画を作るとか、お二人に映画を撮らせることは出来ませんでして、当時大森一樹監督が『暗くなるまで待てない』と『オレンジロード急行』を作りまして、その番組を文芸坐で上映しようじゃないかという時に、これだけではちょっとお客がはいらないだろう、と。『オレンジロード…』が大変評判よくなかったんですね。まさかここには大森さんいないでしょうね。

考えまして、ここは大森君に一本映画を撮らせようじゃないかと、そして鶴見のどこかで大森君が講演なさった時に会いに行きまして、「大森君、どうだい一本映画撮らない?監督お願いします。」と言ったら、「あっ、フィルムあまってますから5万円です。5万円で作ります。」ということで始まったのがそこにあります『夏子の長いお別れ(ロンググッドバイ)』ってやつです。この映画はですね、16ミリで5万円で始まりましたが、とても5万円では収まりませんでした。だんだん増えていきまして、それでもとても小林さんのところとか小泉さんのところには比較にならないほど安い制作費であがりましたけど、よく考えるとこの『夏子の長いお別れ(ロンググッドバイ)』というのは大森君が個人で作って、ご覧になった方はいないと思いますが、要するに私小説というのがあるが、私映画です。大森自身の私の映画だと思います。それをよく文芸坐が撮らせたなってことで、私自身がいまだもってこのポスターを見るときに自己満足しています。ただ自己満足しているだけであまり公開はされなかったです。公開したのは文芸坐だけだと思います。ただし文芸坐で公開した時は、朝10時、9時50分だったかな、上映時間の時には文芸坐を取り巻く長蛇の列が出来たことだけは、やっぱり大森の力がすごかったんだ、監督の力がすごかったんだと、今でもそう思っています。
 




映画製作の新しい路線作り

箕輪:どうもありがとうございます。
ちょっとお詫びなんですけど、プログラムの方で『狂い咲きサンダーロード』のくだりで文芸坐が『暗くなるまで待てない』を制作したってようなことが書かれていますが、これは間違いでそちらの『夏子の長いお別れ(ロンググッドバイ)なんですね。お詫びして訂正させていただきます。

それでですね、いろいろな作品をいい意味で競い合っていた並木座、上板、文芸坐と、そういうところから若い映像作家も競い合うように出てきた、熱気のあった時代だと思うんですよね。その中でやはり頭一つ抜き出たのが先ほどご覧いただいた『狂い咲きサンダーロード』だと思うんです。興行的にも16ミリで撮ったにもかかわらず、35ミリにブローアップして商業ベースに乗った。そして批評的にもキネマ旬報のベストテンにも入りましたし、先ほど観ていただいたんで分かると思うんですが、僕はニュープリントで見せていただいて、当時文芸坐で観たときよりも面白かったと思うんですね。やっぱり今の映画には無いパワーみたいなものを感じたんですけれども、『狂い咲き…』の制作過程で、上板さんだけでなく、協力というか競い合ったとはいえやはり並木座、それから文芸坐がバックアップした部分があると思います。そこら辺の制作過程の秘話というか何かご苦労されたようなお話があったら伺いたいと思うのですが、小泉さんはいかがでしょうか。
 

小泉:私のところは『狂い咲きサンダーロード』、3回か4回上映しています。成績は中の中位でしたね。先ほど大森一樹の『オレンジロード急行』というのは松竹ではこけてましたけど、名画座向けのうちでは何遍やってもかなり大入りが出ました。大森監督の名誉回復のために一言。
 

箕輪:小林さん、ちょっとそこらへんお願いします。
 

小林:そうですね、競い合ったというかね、そういう状況にあったんですね。あの当時、大学の映画研究会っていうのは、俺も俺もと先立って8ミリを撮ってた。それが逆に、石井も飯島陽一監督もそうだと思うんですけど、もう8ミリの時代じゃないんだ、ある程度あったら16ミリでやりたいんだ、自分たちはもう映画で飯を食っていくんだというその辺の違いじゃないですかね。僕らは35ミリ、16ミリ、8ミリ(いずれにしても)いいものはいいもんだって、そういう見方はしてたんだけど、彼らはもう商業ベースに乗らなきゃあかんのだということで。全国展開、また各地で上映する場合には16ミリ以上でないとなかなかかけづらいという面がありましたから。

文芸坐の鈴木昭栄さんのところで大森さんが自主制作でやったというのも、私は意識ありますし、並木座の小泉さんの方も『戦争の犬達』(ということで)、「よし、じゃぁうちもやろう」ということは確かにありましたよね。だから『狂い咲きサンダーロード』の製作予算というのは、今言うんですが、石井に100万しか渡してません。100万でいかに出来るかやってみろと。それはもちろん日芸の学校の機材を全部無料提供で、彼はそれを卒業のものにしよう「という気構えがあったんですが、彼は現実的にこれが走って商業ベースに乗っちゃったんで、映画学校も中途で辞めざるを得なくなったというような流れなんでね。これはプラスなのかマイナスなのか分かりませんけど、まあまあ映画業界においての新しい路線作りというのが、各配給会社が作って興行するっていうものから、もう一つ新しい路線がここで繋がってきたんだなという気がしますよね、流れがね。
 

箕輪:やはり今、日本映画なんか大手よりむしろ独立プロダクションの作品が非常に氾濫しているというか、多いわけです。そのもとというか、礎みたいなものを築いたと言っても…
 

小林:そうですね。それはもちろん大森一樹監督を始めとし、あの当初、森田芳光、あの辺がぞろぞろ出てきましたからね。やっぱり礎になってるんじゃないでしょうかね、はい。
 

箕輪:どうもありがとうございます。鈴木さんはいかがでしょうか。
 

鈴木:文芸坐は、皆さんご存じだと思いますけど、名画座の中でも大変、特集とかいろいろなものを組んでいたんです。そのなかで、その頃はやっていた自主映画を取り上げようじゃないか、俗に言うノンシアターの騎士たちを集めて上映しようじゃないかということで、自主映画の開拓に目を向けて実際私たちあっちこっちで歩いて、この映画は出来る、この映画は出来ないとか…。ご存じのとおり名画座というのは要するに古い映画を安く見せる、これをモットーとしてたものですが、映画会社がなかなか(フィルムを)出さなくなってきた。フィルムを出してくれなければ映画館はもたない。じゃぁ我々が若い作家をこしらえようじゃないか、そういう気持ちがありましたもので、ノンシアターの騎士たちを特集して上映した時に、大変(お客さんが)入ったフィルムの中から大森君に映画を撮ってもらったり、土方君に映画を撮ってもらったりしてたんです。それが並木座の小泉さんだとか、(上板の)小林さんたちをある程度刺激して、こういう素晴らしいものを多く出してしまったと。どうも僕はスカなんで、最初はちょっといいとこ狙うんですけど、後は全部いいとここちらに持って行かれちゃう…、そういう感じです。
 

箕輪:そんなことは決してないと思うんですけど…(笑)。どうもありがとうございます。




『竜二』にこめられた、脚本家金子の熱い想い

箕輪:それでですね、そういう制作面だけでなく、これから座談会の後に観ていただく『竜二』なんですけどね、この『竜二』なんかは自主制作の映画ですよね。製作段階では特に名画座が関わってたわけではないと思うんですけど、結局なかなか上映する手立てが当時、インディペンデント映画なんていうのはそうなかったでしょうから、作品の本質を見極めて、何とか上映まで出来るようにすごくバックアップをされたと。制作だけではなく、若い生きのいい映画作家たちを後押ししてたという、そういう部分というのも今から考えると、そういう健勝なことをする人はいないんじゃないかと僕は思うんですけど。

『竜二』が商業ベースにやはり乗っかりまして、成功を収めるまでのお話なんかを上映に先駆けて色々伺いたいんですけど。本日、『竜二』でヒロインを務められた永島映子さんも見えてますので、永島さんにもそこら辺のお話を伺いたいと思います。

永島さん、どうぞ…
 

(間)
 

鈴木:間がありますので、言います。『竜二』の時の監督が川島、主演が金子、それから脇役で菊池健二、全部KKKK、こっちもKKです。僕はドクターK、野茂英雄に球を投げられてるような感じでしたね(笑)。それから『竜二』は始まりました。
 

箕輪:それでは皆さん拍手でお迎え下さい。永島映子さんです。本日はお忙しいところ、わざわざお越しいただいてありがとうございます。
 

永島:どうも、こんばんわ。今までどういう話があったんでしょう?これからですか?
 

箕輪:これから『竜二』のお話が佳境に入るところです。是非お願いします。

それでは、永島さんがですね、『竜二』の制作というかまぁヒロインですけど、キャスティングされたきっかけを是非伺いたいと思うんですけど。
 

永島:きっかけは金子さんが私のファンだったというか、当てて(脚本を)書いてくださったと言う…。
 

箕輪:じゃぁ、もう脚本の時点で永島さんは役を想定して…、ああ、そうですか。

それで『竜二』っていう映画は制作段階で非常に難渋したというお話を、いろいろなところで断片的に分かっているんですけれども、そもそもその制作の発端って言うんですかね、そういうところを伺いたいんですけれども。
 

永島:制作の発端。金子さんはもう、もしかしたら死をしっかり分かっていたわけではないけれども、自分はもうだめなんじゃないかということは、なんだか分かっていたんじゃないかと思います。金子さんは、松田優作さんと、まだ松田さんが売れない時からの親友で、かたや松田さんは映画界でどんどんスターになって、自分(金子さん)は内田栄一さんのところでアングラやってらしたんだけど、やっぱり最後に田舎の親も誰も知らない、自分が何をやっているのかも知らない、東京でやくざやっているんじゃないかと言われてて、自分の形が映るということをやっぱり映画でやりたかったんでしょうね。だから自分が主役をやるための映画の脚本をたくさん自分でも書いてらして、売れるとか決まってるわけじゃないけれども、とにかく友達のお金集めていきなり作ってしまったという、制作のそれ(発端)っていうのも、とにかく金子さんが自分の、自分を映したいという、それだけなんだと思いますけど。
 

箕輪:わかりました。ありがとうございます。この後『竜二』、観ていただきますけど、ニュープリントで非常に情念の感じられる素晴らしい作品に仕上がっていますよね。途中で監督さんが交代したりでね、何かお話伺うと…そこら辺のお話は小林さんとかに伺ったほうが異いかと思うんですけど、お願いします。
 

小林:私は、(鈴木)昭栄さんの方から金子とちょっと会おうという話がきっかけで会ったんですが、その前に上板東映の方に金子の方から脚本は送られてきました。僕らは一応制作は興行の方でやってましたんでね、これがどうなるかっていうのは疑心暗鬼だったんですが、作品を観てからなんですが、今金子が亡くなり、また本当に金子の下で働いていた、これから『竜二』をご覧になると分かるんですが麻薬中毒で死んで行っちゃう菊池健二という俳優がいまして、(菊池から)彼(金子)の話を私はいくらか制作段階から聞きました。非常に金のないところで監督が替わり、一回中断しようかと思ったんだけど、金子はそれはさせない、ともう本当に自分がお店を開いたものを金にしてね、映画製作の資金にやったと。それで以前の吉田(監督)っていうのがおりまして、川島透に替わった経緯も諸々あるんですが、とにかく金子はこの映画を絶対、最後まで映画にしないと、というその情念みたいなね、感じが最後まで『竜二』を作ったあれになるんじゃないですかね。

菊池と金子が…菊池もいなかったら、これはどうかな?という感じが今でもしてますけどね。あんまり細かいことは(話が)長くなるんでね。まぁ、諸々そんなつらい状況の中でみんな頑張ってやったと、金がなくなったらまた金を作ってやったというような感じの作り方だと思いますね。
 

小泉:脚本を持って、私に相談したのは早い時期だと思いますけど。そうですね、完成する一年半以上(前)くらいに持ってきた時は、相手役は永島映子だと自分で決めていましたね。それからその本を見せてもらったんですけど、まだ未完成のものであったし、また私のところに制作費を頼むと言いに来たんじゃないかなと思って、私もその辺警戒してたんですね。けれども金子本人にしたら、もうガンということで約一年、自分でも分かっていたんだろうと思いまして、躊躇する余裕がなかったのです。再考するとか、そういう余裕がなくて始まったんだと思います。私のところになぜ来たかといいますと、東映がそばで、どうしても東映の波を打つマークが欲しいんだと、そういうことを最初から言ってました。
 

箕輪:鈴木さんはいかがでしょう?
 

鈴木:金子さんと皆さん会ったことないですかね?映画の中ではご覧になると思いますが、すごくいい奴なんです。彼と会うと、なんかね、吸い込まれていっちゃうんです。しゃべり方も上手だし、男っぷりもそりゃ俳優さんですから、いいことはいいって言うけど、それほどいいとは思ってないんですけどね。彼と一遍コーヒー一杯飲んでしまうと、どうしても協力したいなと思う。それで僕が最初に『竜二』の本を見せてもらった時に、僕は映画館の興行師だから本を見てこれがいいか悪いか分からない、映画を作ってみてくれと。それで彼らが大変苦労して作った映画を真っ先に見せてもらったんです。素晴らしい映画だったです。本当にこんな映画、彼ら作れるかって思ったですね。こんなすばらしい映画どうして出来たのかって思いました。これからご覧になれば分かると思いますがね、ラスト、すごいだらだらと金子がね、彼はさっそうとしてると思ってるんだろうけど、だらだらだらだら新宿を歩く場面があったんですよ。それだけは僕は勘弁して欲しいと、それは切ってくれと、切ったら俺は応援しますと言った。そしたら翌日切りました。



名画座をチェーン店化!? ”名画座懇談会”

鈴木:そして金子に、じゃぁ協力しようと言いましたが、そのころ僕は、文芸坐を辞めてましたんで、文芸坐の人たちに金子竜二の映画を見てくれって言ったんですけど、僕が持って行くと、鈴木さんの映画っていうのはちょっと変わってるからって言うんで、あまり歓迎されなかったんです。しかたなく小林さん、小泉さんにお願いして、我々はそのころには”名画座懇談会”というものを作ってまして、そこで持ち上げてくれないかということで、3人で映画を上映することに協力し始めたんです。
 

箕輪:今お話の中に出てきた、”名画座懇談会”のことについてちょっと伺いたいんですけど、どのようなものだったんでしょうかね?小泉さんからお願いしたいんですけど。
 

小泉:映画が斜陽化し始めて、配給会社がどの映画出しても制作費も回収できないような状態だったんですが、その映画を名画座でやると割合入って、いい成績をおさめてたんです。配給会社の方では、自分のところでやっても入らなくて名画座で入ってたんじゃ妙なもんで、名画座に意地悪を始めたんですよね。名画座にプリントを出さないというようなことを始めたんです。我々も上映するものがなければ映画館でなくなっちゃいますので、何とかそれを自主制作にしろ、配給会社に出してと交渉するにしろ、一館では弱いので、ひとつグループを作ってやろうと、最初は何館ぐらいでしたかね、かなりの数がいたんですけど、30?そんなに名画座あったんですがね、そのうち今消えて、配給会社の方が手を打ったりして懇談会を抜けた人もいましたけど、かなり盛況で、”名画座懇談会”を作ろうじゃないかと都内でやれば全国的に広がって行くんで、毎月一回やってました。
 

箕輪:結局頓挫してしまった部分があると思うんですけど、構想としてですね、名画座をチェーン店化するというような構想をお持ちだったとちょっと伺ったんですが、そこら辺のことを小林さんに伺いたいんですけれども。
 

小林:名画座っていうのはその前は敵同志ですよ。私ども上板東映は池袋から東上線の6個目の駅まで行かなきゃならない。そこにお客を文芸坐を通して呼んでこなきゃならないっていう一つの苦労があったんですが、そのころ、小泉さんもそうだしみんな自分のお店を維持していくのに精一杯で、いわゆる商売がたきだったんですが、状況的にそういうことじゃないんだと、もうみんな、今の状況、小泉さんが言われたとおり、配給会社がそういう体制であれば、やっぱり僕らはグループを作って運動をしていかなきゃだめだということで。いつか名画座はつぶれるよ、火が消えていくよ、っていうのは分かりますけど、それを今度どういう風に実現して、名画座体制をもう一回樹立していこうかという、いわゆる懇談会。僕らは本当は”名画座チェーン対策何とか委員会”にしたかったんだけど、そうするとまだまだ配給会社も圧力が強くて、おまえんとこフィルム貸さねぇという配給会社も多々出てきますので、鈴木昭栄さん、小泉さん、僕ら三人でいわゆる懇談会にしようじゃないかと。

各名画座の情報交換の場ということで話はしてたんですが、いわゆる監督の卵たちは僕らの名画座で勉強し、また僕らもプラスになった面があって、そういう監督たちを今度は名画座がこういう形なんで、何とか助けてもらえないかという構想が一つあったわけです。それは各支配人たちがいくらかでも金を出資して、名画座だけで制作予算を出して、各監督に撮らせて、名画座のルートで映画をかけたらどうだろう、というのが僕ら三人で打ち合わせたことなんですが、その中に『竜二』もあったし、曽根中生の昔『夜をぶっ飛ばせ』っていうフィルムも、あれも一応名画座から生まれた作品なんですよ。だけどなかなか各名画座っていうのは個性がありますので、よしみんなで一緒にやろうっていうことにはならないんで、その点が非常に残念なんですが、だけどその構想では僕らは走ってたつもりなんですよ。そう言っているうちにどんどんどんどん名画座がなくなっっていっちゃったという状況なんでね。
 

箕輪:そこら辺のこと、鈴木さんはどういう風に…。
 

鈴木:お二方が言ったことと同じことだと思います。ただ名画座で皆さんお金を出し合って、若い人たちに映画を撮らせて、安く映画を見せようじゃないかというのが趣旨でした。今もご存じのとおり、封切りはいくらとか、ちゃんと決まっています、金額が。僕たちはやっぱりその映画の良し悪しによって金額が決まってもいいんじゃないかな、良し悪しと言ったら映画を作った人に申し訳ないんだけど、例えば制作費が5万円だったら安い料金で見せてもいいし、5千万だったら多少高くてもいいんじゃないかなと、そんな感じでやってました。

その中に『竜二』というものが突然舞い込んだんです。ですから『竜二』が名画座チェーンで最初の上映を…っていうとこまで足を踏み入れたんですけど、先ほど申しましたとおりに、金子が出来れば三角マークが欲しい、三角マークが欲しいと言うので、三人で三角マークの会社に通いました。だけどいい返事がなかったんです。いつ行ってもいい返事はなくて、こりゃダメだと、しょうがねぇ上板でやるか、文芸坐でやるかってしおれて帰ってきて、小泉さんは「俺は並木座へ帰るよ」って帰っちゃった。5,6人いたのかね、銀座の地下鉄の改札口の前で、淋しそうにホームレスのように男たちがしょんぼりしてる所へ、向こうから光ったものが飛び込んでくるんですよ。「何だ?」と思ったら小泉さんなんですよ。光るはずですよ、ここがすごいから、パッパッパッて光ってきて(笑)、そして「おい、中西さんがいいこと言ったぞ」、中西さんはあの頃東映の…「中西部長が何か『竜二』のこと言ったぞ」って言うんで、嘘だろう、そんなことないって…。いや聞くと本当なんですよ。そしたらね、禿じゃなくて神々しく見えちゃったんですよ。それで大の男が本当に皆さん、きちがいのようにね、僕も入ってますが「万歳、万歳、竜二万歳」って大騒ぎして、それから東映に駆け込んだんです。それが三角マークの付く最初のきっかけなんです。
 

箕輪:それが決まった時、金子さんすごく喜ばれたということなんですけど、それでもやっぱり、永島さん、あんまりその時はもうお身体の具合が良くなかったという風に伺ってるんですけど…。
 

永島:そうですね。だからいろんなところに名画座でかけてくださるという約束をしてくださった時に、葉山の海に遊びに行ったんですけどね、ほんとにそれでほっとしちゃって、菊池さんと三人でビールで乾杯して、それで私が泳いでいるところをじーっと見ているうちにみるみる黄疸が出てきちゃって、それで即入院になっちゃいましたね。だから本当に金子さんにとっては、この三人の支配人たちの今までにない、本当にドラマッチックではない、スター役者がいるわけではない映画をこんなに名画座の方たちが愛してくださった、それで一緒に金子さんと売り歩いて下さったという、金子さんに代わって本当にありがたいなぁと思っています。今日はちょっと花を持ってきたんです。

(花束贈呈)


箕輪:あんまりお話してるとまだご覧になっていない方に話の中とか分かっちゃう部分もあるんで、それを避けながら話すのもなかなか難しいんですけど、だけど本当に『竜二』っていう映画ははっきり言っちゃいますとめちゃくちゃな状況の中で、途中で監督がぽっといなくなって替わっちゃったりとか、普通そういうことがあったら、よくハリウッド映画の中でもありますけどね、大体そういうのは駄作になっちゃうパターンがほぼ定石なんですけれども、『竜二』はそういうような悪条件にもかかわらずあれだけ素晴らしい作品になって、文芸春秋の日本映画の150本の中で50何位だかにランクインするくらい、やはりそれだけ思い入れを持っていらっしゃる方が大勢いるという、そういう名作と言っていいと思います。そこまでなったということは、僕は映画に神様がいるんだとすれば、映画の神様に愛された稀有な映画だと思うんですよね。

ただやはりそれを引き換えに代償もすごく多かった作品だと思うんですよね。先ほどもお話出ましたけど、主演の金子さんが作品の公開後に亡くなってしまったり、菊池さんとか関係されてる方が病に倒れたということもありますから、何か運命付けられたような作品の気がするんですけれども、それが名画座というバックボーンから生まれて来たっていうのも何かの縁だと思うので、皆さんこれから座談会の後上映される『竜二』、是非そこら辺を頭に入れて見ていただくと、感慨がひとしお違うのではないかと思います。

それではお時間の方もなくなってきたので、最後にゲストの方々に名画座への想い、皆さんもう第一線から退かれてしまってあれでしょうけど、現在の名画座の状況もふまえて名画座への想いをちょっと語っていただきたいと思うんですけど、小泉さんからお願いします。

小泉:私ども、現場を離れて8年くらいになりますけど、最後の頃に思ったんですけど古い映画を何遍も上映してましたので、一つの人が集まる社交場みたいな形になって、若い人も十人に一人くらいになっちゃいましたので、お年寄りが来て、あそこで話し合う場というような感じでもってやっていけば、まだかなりこれから続いて行くんじゃないかと思いましたけど。残念ながら9月22日に閉館になってしまいましたけど、私は引退してますので何ともなすすべもなくてしょうがなかったですね。
 

箕輪:ありがとうございます。だけど並木座っていうのは、お客さんが来なくなってしまったためにつぶれたというのではなくて、他の諸事情で閉館に至ってしまったというようなお話を伺ったんですけど、確かに小さいキャパシティの映画館で固定ファンいたと思うんでね、やっていこうと思えばやれたんじゃないだろうかと、部外者の意見ですから無責任なもんですけどそんな風に僕は感じていたんですけども。

小林さんいかがでしょうか?

小林:事実私の方は仰せながら興行からいわゆる制作の方へ引っ張られまして、自分ながらの映画の制作を相変わらずやっておりますけど、一つ私たちはメジャーなでかい作品よりも、若い人たちを育てる場をやっぱり僕らが作ってあげなきゃいけないんじゃないか。これは配給会社は何をやっているんだと非常にうっぷんがありますよね。逆に僕らが動くんじゃなくて配給会社がそういうものをちゃんとしてやらないと、いつまでも若い映画作家たちが育たないという面もあるんでね。とりあえず私は制作を走ってますけど、夢はやっぱり自分の映画館を持てたらという夢は持っています。どこかの館がだめだっていうなら、私支配人でいいから雇ってくれというくらいの意気はありますけどね。今の映画業界っていうのは非常にただお金の計算ばかりやってるわけですよね。映像っていうのはね、お金は後についてくるものっていうことで考えていかないと非常につらい面もあると思いますよね。

それともう一つ言いたいのは、先ほど鈴木昭栄さんも言われたとおり、入場料金が高い。この1800円、これいいですよ、映画制作費が3億、5億、10億かかったのは3000円も4000円もとってもいいじゃないですか、それは。ところが1千万、1千5百万、今だいたい単館の自主制作でやってる予算的な制作費って言うのはだいたい5千万から8千万で何とか単館ロードで回収していこうっていう、そのめどで動いてますけど、やっぱり1800円っていうのは高いんです。1千万で撮ったら800円でいいんですよ、例えばね。3千万なら1000円でいいと。そりゃあね、僕ら考えるとお客の立場だと逆に詐欺的な問題なんですよね。今の日本映画を悪くしているのも原因は一つ、そこにあるんじゃないかなという気がしますけどね。私はこれからも自分ながらそういう向きで戦って行きますよ。
 

箕輪:ありがとうございます。それじゃ鈴木さんお願いします。
 

鈴木:文芸坐は皆さんご存じですかね、大変汚い劇場です。文芸坐が上映していた時にはあそこに映画の大好きな連中が…連中って言ったら申し訳ない、お客様も作家もみんな集まって、一つの何ですかね、映画界のアウトローが吹き溜まりのような感じで集まって、その中で喧々囂々まるで水滸伝の梁山泊みたいです。若い人たちが意見を言いながら、喧嘩をしながら、酒を飲みながら、映像作家になったりシナリオライターになったりしてみんなだんだんあそこから巣立って行ったのです。それが今ビデオとか何かでオタク族になると、巣立って行くのかなぁという心配もあります。

それからもう一つですね、今名画座がなくなっていきますけど、名画座の代わりに“しんゆり映画祭”のような映画祭をあちらこちらでやってます。これが今、名画座に代わってやってんじゃないかと思う。だから見に来てやってください。今名画座がなくなりつつありますが、映画祭は健全です。ということは映画も健在です。私も小さい映画館で今、年寄りで、腰を曲げながら働いていますので、映画のためのご支援お願いします。
 

箕輪:どうもありがとうございます。永島さんからも是非一言、名画座に対する想いみたいな…
 

永島:本当に今三人の方がおっしゃったような、小泉さんは花菱アチャコとか美空ひばりの小さい頃のことを知ってらして、サインをたくさん持ってらっしゃって、たくさん映画を観て、たくさん映画をかけて、そういう人たちが無名だった金子という役者の映画に惚れて、金子という役者に惚れて、売りに歩いてくださったということ。それで本当に売れなかったら悲しんでくれて、売れたら喜んでくれたという、その気持ちが素晴らしいなと思ってこういう方たちは本当にいないんじゃないかなと思って、うれしく思います。
 

箕輪:どうもありがとうございます。そういうわけでお時間がそろそろ来てしまったので、最後にですね、しんゆり映画祭の方から花束の贈呈を今日お越しいただいたゲストの方にさせていただきたいと思うんですけれども…

(花束贈呈)(拍手)

それともう一つですね、今回先ほど会場の皆さんに色々記帳していただいたんですけども、各映画館のイラストをあしらった色紙を、我々映画ファンと映画関係者の方のささやかな感謝の気持ちとして、お三方に差し上げたいと思います。
 

(色紙を取りに行っている間)

やっぱり映画館っていうのはですね、我々観客と作り手の唯一の接点なんですよね。このスクリーンに、やっぱり映る場がなければ、映画っていうのは命が宿れないわけですから、僕は観客の立場で、映画館っていう場所を軽視しているような風潮があるから、名画座っていうのは廃れていってしまったんではないかと常々思っていたんで、今回のような催しにこうやってお客さんにお越しいただいて、 こういう場が持てて、個人的に本当に本当にうれしい…って言ったらつぶれちゃったのにね、本当はやっててくだされば、こんなことやらないですめば一番良かったんですけど、これも時代の流れでしょうからしょうがないことなんですけど。映画館の方と我々なかなか接点ないですから、こうやって直にお話して、ありがとうございますと言えるというのは、胸のつかえが下りたような気がしてて、しかもみなさんと共にそういうことができる、本当にありがたいことだと思ってます。

お待たせしてすみません。
 

小泉:伊丹十造さん亡くなりましたけど、あの方が『お葬式』を撮る前にうちへ2ヶ月くらい、毎週のように通ってきましてね、何を始めるのかなと思ったら、出来たのが『お葬式』だったんですね。それでよく並木座に来ていただく吉屋信子さんなんか、作家平林たい子さんとか、それから思い出すのは辰巳柳太郎さんがね、歌舞伎坐に出ているそのままの姿でもって観に来たり、渥美清さんが草履履いて来たり、松田優作さんがはんてん着て来たり、色んなことが思い出されますね。それから田宮二郎さんとか寺島修二さんとか。並木座で勉強したのは十朱幸代さんとあの親父さんと、もう交替交替で来て、一生懸命勉強してるんだなと思いました。大森一樹監督もかなり通ってもらいました。だいぶ昔ですけど自分が大学を出たと言っても並木座を知らないと言ったら、大学を出たのが嘘じゃないかと言われた時代がありました。そのくらい大学行くよりは並木座に通ってもらった人が、昔はたくさんいました。

箕輪:どうもありがとうございます。