2002年10月11日
「少年と砂漠のカフェ」上映後 講演
佐藤 忠男氏


司会:どうもお待たせいたしました。映画評論家の佐藤忠男さんです。本日はイスラムの映画についてお話をいただきたいと思います。よろしくお願いいたします。

(拍手)

アボルファズル・ジャリリ監督は熱血漢

佐藤:そこの線路のむこう側に、日本映画学校という専門学校がございまして、そこの校長をやっております。今日は、イラン映画を観ていただきました。この映画の監督のアボルファズル・ジャリリという人は、私個人的にもよく知っております。この映画の最後に「この映画をすべての戦災孤児に捧げる」という字幕が出ておりました。こういうヒューマニズムのメッセージはよく出るんで、ちょっとね、ヒューマニスト気取りだなーなんて、斜に構えて見えがちなんだけども、この人は本当に本気ですごい熱血漢です(笑)。これまで7・8本の映画を作ってるんだけども、全部こういう映画です。

一番最初に作ったのが、もう17・18年前になるのかなあ。『スプリング−春へ』という映画です。イラン・イラク戦争当時、空襲を受けたりして危ないというので、子供が田舎に疎開します。その疎開先で、都会にいる両親のことを思って非常に孤独な生活をしている子供と、親戚の人なのかなー、それを見守っているおじいさんを描いた、よくあるタイプの映画ですね。映画の作り方としてもごくオーソドックスな映画です。

しかしそのあとにね、ずいぶん過激になった。どういう風に過激になっていくかというと、『かさぶた』っていう作品が評判になった。これは少年院の子供たちを描いた作品です。実際に少年院に入っていきまして、少年院の中で一緒に生活して、実際の少年たちに役を振って、彼らのいろいろな人生を、なぜこういうとこに入ったかなどを聞いたりした。しかし、外でどういう事件を起こしたかということは問題ではなくて、少年院の生活ですね。少年院の看守たちって別に悪い人たちではないけれども、かなり苛烈な日々なわけです。それを一緒に生活しながら撮ったんですって。実際非常にリアリティがあるんですけどね。こういうことは日本では不可能ですね。プライバシー問題が生じます。しかし、ジャリリが刑務所に自分で入ったわけだから、少年たちも彼を人間的に信頼してね。劇映画だけども芝居くさいものじゃなくて本当にリアルで、非常にいい作品です。しかし、この映画は上映禁止になりました。なんでだか理由はよくわからないんです。

ジャリリ監督と検閲と上映禁止

われわれ、検閲といいますと、だいたい基準があってね。たとえば日本だったら、ヘアーはいけないとか、それは見逃すけれども、性器そのものがずばり写っちゃいけないとかね。決まりを作って、これは芸術映画だから勘弁するなんて、そういうことはないわけです。その決まりどおりにヘアーが見えたってなことを機械的に見る。本当にこれ冗談じゃなしに、前に一度ベトナムの映画を日本に持ってきたことがあって、そのときに私、何べんも観てぜんぜんヘアーが写っていることに気がつかなかったんだけど、税関の人が正確にそこだけをパッと発見しましたですね。驚きました。そういう風に日本の場合、機械的に基準があって、良いの悪いのという議論はしない。ただこう決めてあるんだからこれでってことなんです。イランの場合は、そういう基準はないらしいんです。イスラム指導省という役所がありまして。指導省というのは、イスラムの精神を指導する役所です。そのイスラム指導省が、これはイスラムの精神に反すると判断すればだめなんですね(笑)。なにがイスラム精神に反するかってことは、よく分からないわけです。その検閲官の判断しだいですから。あまり悲惨なことばかり描くと、イスラムというのはそういう悲惨な世界ではない。だからイスラム精神に反するということになるらしいんです。よく基準が分からないんですけども、この作品は上映禁止になりました。以来、彼が作る作品は全部上映禁止になるということで、非常に名声をはせたんですけども、これは変な話ですね(笑)。作る作品が全部上映禁止になるのに、なおかつ出資者がいるというのが、実に不思議です。まあそういうことはわれわれの常識にはないんで、不思議な世界です。でも彼は引き続き何本もの映画を作っています。

『かさぶた』の後ではねぇ、『トゥルー・ストーリー』っていう作品があります。これはね、ある劇映画を作るつもりで、子役を探した。子役っていったって、まあ少年ですけどね。16、17歳くらいかな。適当な少年がみつかって、その少年を主役にして劇映画を作り始めたところが、その少年が、足のどっかが病気でね、その病気が非常に悪性の病気ですぐ手術しないといけないってことが分かったんですね。じゃ、その少年をお払い箱にして別の少年を探して映画を作るっていう、これが常識です。常識だけども、彼はね、この少年を主役に抜擢することに決めたんだ。非常に貧しい、かなり悲惨な生活をしている少年を主人公に決めて、自分が身元を引き受けたわけだな。自分が身元を引き受けた以上はね、見捨てることはできないって言ってね。その少年が治療を受けて治るまでのドキュメンタリーにしてしまいました。こういう映画の作り方ってないですね(笑)。実にまあ、不思議な映画の作り方というか。だから、彼が「この映画をすべての戦災孤児に捧ぐ」、というタイトルをつけても少しもおかしくない熱血漢なんです。しかしね、この映画も上映禁止になりました。やっぱりイスラム精神に反するんでしょうね。どういうわけでイスラム精神に反するのか。ま、生意気だと。生意気なことは確かです。一度、彼は東京国際映画祭に招待されたことがありまして、その時に、イスラム指導省の役人も来てたんですけど、映画祭のパーティの席上で、その指導省の役人と喧嘩してましたよ。「いくら威張ったって、もうじきお前なんかどっかに飛ばされちゃうんだから」なんてことを言ってたそうです。そんなことを言ったら、やっぱりにらまれるでしょうね。まあ、たぶん(笑)、にらまれてるとしか言いようがないと思うんですけど。

それから『ダンス・オブ・ダスト』という作品がありまして、これは劇映画というよりはほとんどシネポエム的な作品でして、三年ぐらい前の東京国際映画祭で、アジア映画のベストということで渋谷区から百万円の賞金をもらいました。そのとき、私が審査委員長でした。それで、彼は私のことをおおいに立ててくれてるんです(笑)。まあ、百万もらったってねぇ、映画の制作費から考えればたいしたことないです。イランの田舎では建物のレンガというのは、だいたい太陽の熱で粘土を固めた泥レンガで作ります。雨が降れば崩れちゃうレンガなんですけど、めったに雨が降らないから大丈夫なんでしょう(笑)。中近東のほうにはそういう泥レンガの家っていうのはいっぱいあります。そういう泥レンガを一生懸命作っている村の女の子たちがいて、そこに季節労働者としてやってくる青年との間に、なんかほのかな恋が芽生えたような芽生えないようなエピソードがあって、そしてある日、大雨が降ってそれが全部ムダになっちゃうというような、そんな話です。非常に詩的な、本当に美しい映画でした。この映画も上映禁止になりました。これも本当に分からないです。やっぱり、本当にあいつ生意気だってことでにらまれてたとしか言いようがないですね。

『ぼくは歩いてゆく』

しかしその後、これは日本でも公開されました『ぼくは歩いてゆく』、これはすばらしい映画でした。これも実際に、ある少年と出会った、監督がね。非常に貧しいけれども懸命に生きているというような、そういう少年にしか関心がないんですね。それで、いつも、そういう少年を探しているから、典型的なそういう少年とやっぱり出会うんですね。その少年が、まだ子供だけれども、実は小学校に上がっていない。なぜかというとね、父親が麻薬中毒でね、だから警察が怖くて、警察やら役所やらに出入りしたくない。それで、子供が生まれたときに役所に届けなかった。それで戸籍がないわけです。こういう国には住みづらいなあと思うんだけれども、だから身分証明カードもない。日本でも外国人登録証なんてのがあるから、あまりよその国のことを言えないけれども、そういう証明書を持ってないと、就職できないんですよ。子供が働いてもかまわないんだけれども、身分証明書がないためにね、どこに行っても半端な仕事しかなくて、すぐクビになるという状態で、それでも一生懸命働くんです。なぜ一生懸命働くか? 父親は麻薬中毒で、刑務所に出たり入ったりばっかりしている。そして自分はまだ幼い子供だけれども、一家の柱であるという自覚を持ってましてね。それで一生懸命働く。すると、近所の同年輩の女の子が同情して、なんか自分の証明書かな、お兄さんの証明書かな(笑)貸してくれるんですよ。貸してくれたところが、それがニセ物だってバレて、それでまたひどい目にあったりね。ひどい目にあっても自分はこういうやり方でしか生きられないんだ、そうでないと自分はもう家族を養えないんだってことをね、涙ながらに訴えるところなどは、迫力ありましたね。これはすばらしい映画です、そういう意味でね。

『ぼくは歩いてゆく』って、本当にその題名のとおりでね。とにかく、次から次へといろんな仕事を探すんだけれども、すぐクビになる。クビになると次の職を探すために、またせっせと街を歩く。ひたすら街を歩く。今日の映画では、やたらと自動車で行ったり来たりするでしょ。あれと同じでね。メソメソ、理屈で、セリフで、世の中が悪いとか、そんなことは言わないんです。ただひたすら歩く。ものすごい足取りで歩いていく。こっち行ったりあっち行ったり、そういう場面が次から次へとくりかえされる。その少年の夢は「学校へ行きたい」ということなんですね。結局いろいろありまして、彼は戸籍を作ってもらうためにまた歩き回るわけです。戸籍を証明してもらうために人に頼むとか、そしてまた役所に行くとかね、これは書類が足りないとか、それでまたそのことを証明してくれる誰か知り合いを探し回るとかね、とにかく歩く。せっせと歩く。愚痴なんかひとことも言わない。とにかく文句を言うときだけはくってかかるようにしゃべりますけども、あとは、愚痴なんてことは言わない。ただひたすら歩く少年の話でしてね。彼は、映画が終わってから監督のジャリリが身元保証人になって戸籍を作ってもらって学校に入ったそうです。ただ、実際の年齢はもう10歳か11歳くらいだと思うんだけども、なにしろ、自分の家族を養うくらい働いてるんですから五つや六つてことはないわけですけど(笑)、だけど小学一年生に入るのにね、その年齢じゃまずいらしくて、たぶん四つか五つごまかして、今小学生になっているそうです(笑)。そういう映画です。考えてみると、彼はそういう映画しか作ってないですね。そして、次どんな映画を作るんだ? って訊いたら、やー、その国境の街で生きるために、道路に日本の忍者が使うような三角のクギをまいて、通ってくる車をパンクさせてそれを自動車屋に修理させて稼ぐという(笑)、そういう少年の映画を作るんだなんて言ってましたけど、それがこれだったんですね。出来上がってみたら、忍者のクギじゃなくて、なんかもう少し面白いクギでしたけれども。

イスラム革命と社会体制の変化

今言いましたように、その全部が上映禁止になっていたのにどうしてこの映画が上映できたんだというと、イランの社会体制の変化のおかげです。イランという国は、1979年に革命が起こりました。革命というと、だいたい進歩をめざす革命ということになるんだけれど、イランの場合はちょっと複雑でしてね。イランには王様がいてね、冷戦時代に王様がアメリカ寄りの政策をとっていました。あの辺は冷戦時代にはアメリカとソビエトの勢力争いの場になったわけです。その勢力争いの場の最大の悲劇になったのが今のアフガニスタンですけども、イランはそのアフガニスタンのすぐ南にある国ですから、アメリカとしては中近東における、アメリカの勢力の最大の拠点としてイランを確保しようとして、徹底的に金をつぎ込んだんですね。そして、そのつぎ込んだお金で、イランの王様は親米的な方向で近代化を計った。私はその王妃に握手を賜ったことがあります。いまイランでは人前で男と女が手を握ることは許されません。昔、革命の前ですけれども、イランの児童映画祭というのがありまして。王妃が主催して、なかなかいい映画祭でね。あの有名な『友だちのうちはどこ?』のアッバス・キアロスタミは、その王妃がポケットマネーで作っていた児童青少年知育協会というところの出身で、そこでかなり自由に映画を作れたって言ってました。

イランはイランなりに進歩的な政策をとっていた。そして近代化しようとしていた。近代化のためにはアメリカの援助を徹底的に利用した。しかしそれは一面からすると、お金持ち階級を富ませ、貧乏人は依然として貧乏である、というようなことから反米運動が起こったわけですね。反米運動というのか、ようするにアメリカからお金をもらってアメリカ文化の影響を受けないわけにはいかないわけです。だから、ハリウッド映画もじゃんじゃんやった。ですから、当時のイラン映画の中にはミニスカートの女性もいっぱい出てくる。それは今は上映禁止ですけれども、私はちょいと見せてもらいました。昔のイラン映画の予告編集てのを一時間ばかり見せてもらったことがありましてね。するとね、もうアメリカ映画の亜流ですよ、みんな。ベールなんかつけてないしミニスカートだし、お色気場面もあるし、ヤクザ映画みたいなのも多いしね。当時、革命前のイラン映画で一番ヒットした映画っていうのは、今観るとまるで高倉健の映画です。悪いやつらがいて、そいつらに迫害されて我慢に我慢を重ねた男が、最後に殴りこみに行くところなんてね、もう当時、観客が拍手大喝采したそうですけど、その点、高倉健そっくりですね。ま、そんな映画がたくさんあったわけだ。

イランのその近代化によって一般大衆は別に恵まれなかったわけですね。ま、石油が出たから金持ちはどんどん金持ちになったし、王様もそんなに悪い人じゃなかったからいろんな進歩的な政策はやったんだけど、とにかくアメリカナイゼーションは非常に進みました。そしてそれは、イラン人の伝統的な、保守的な精神を逆なでするものだったわけです。そのアメリカの影響でイランの伝統はくつがえされる、ひどいことになるということで、王様がけしからんということになって追放されました。それで社会革命ではなく、イスラム革命が行われたわけですね。私、イスラム教の教義はよく知らないんだけれども、実際問題として表にあらわれたところでは、享楽的な傾向は非常によくない、それはみんなアメリカの悪い影響である。だいたい人前で女性が歌を歌っちゃいけないとかね。伝統的な歌ぐらいならまだいいけれども、西洋の影響のある歌はいけない、けしからんとか、そういうことになりました。

そのイスラム革命のときに、映画館の焼き討ちがたくさん行われた。映画というものは享楽的な文化をもたらすものであるということで。とにかくアメリカ映画やらアメリカ映画の影響を受けたヤクザ映画やら、ショートパンツの映画なんかばっかりやっているが、そういうのはイスラム精神に反するっていうようなわけでね。これは政府が命令してやったわけじゃないです。一般民衆が過激化して焼き討ちをずいぶんやって、それで映画人がかなり、フランスあたりに亡命してますね。アメリカに亡命した人もいます。その後、だいぶ帰ってきましたけれども。それでイスラム指導省というのができて、イスラム精神を指導するという検閲を強烈に行いました。その結果として、イスラム的な精神に反すると思われるものは、どんどん上映禁止になったわけです。しかし、皆さん覚えていますか? そのイラン革命のとき、やっぱり行きすぎがありました。娯楽を止めるくらいのことはしょうがないんだけれどもね(笑)、アメリカ大使館を若い過激派が占領してそれを政府が黙認した、革命政府がね。それが半年ぐらい続きましたね。あれは、アメリカ人にとってはね、こんなに屈辱的なことはなかったわけですね。あんな田舎の貧しい国にアメリカ大使館が占拠、占領されたなんてね。もうそれがいまだに続いていて、ブッシュが、ならずもの国家だと、北朝鮮とイラクとイランを名指しするんですね。私は、イランはまったくそのうちに入らないと思いますよ。ただ、二十何年か前に、アメリカ大使館を半年ぐらい占領したということに対するアメリカの屈辱感がいまだに残っているんだと思います。

マフバルバフの『パンと植木鉢』が伝えること

たしかにイランはそういう意味で宗教的な過激な動きを示したんだけれども、実は、その過激な動きに参加した青年たちも、その後、だいぶ変わりました。あの有名なモフセン・マフマルバフという監督がいます。今イラン映画を代表する監督の一人ですけど。彼はそのとき革命少年の一人だったんですよ。警官からピストルを奪おうとしてもみあいになって、警官を撃ってけがさせたことがあって、それで刑務所に何年か入ってたんです、まだ少年だったんだけれども。そういう前歴があるものだからヒーローでありましてね。それで刑務所を出てきてから映画監督になりまして、かなり過激な映画を作って、どんどん若い人に人気が出て、今や若者のヒーローです。彼が『パンと植木鉢』という映画を三年前ぐらいに作りました。日本でも上映されました。これはね、私があの時やったことはいけなかった、という映画です。昔、自分が撃ってけがさせた警官が自分のところに役者として使ってくれ、と訪ねてくる。容貌魁偉な不思議なその元警官を主役にしてね、映画を作った。昔の自分役にヤサ男の青年を起用してね。それでその当時のやりとりを再現する映画を作ったんですけどね。これは、明らかに、あの時の自分はやりすぎであった、お互いもっと平和的に話し合うべきだった、という内容のものです。最後に殺し合いになるべき場面で、お互いに植木鉢とパンを交換するという風に場面を代えてあります。

あの時、アメリカ大使館を占拠したというようなことは、いくらなんでも行きすぎですわね。そういうことをやった世代は、実はもう今は考えが変わっていて、その後、イラン政府の検閲などでさんざん痛めつけられて、イスラム革命というのも考えもんだなあという風に考え方が変わってきている。これはもう、今やイランの若い人たちの中で常識になっております。ただ、やっぱり古い勢力はね、断固として、映画のような享楽的な文化はハヤらせないってがんばっていますから、その微妙なせめぎあいなわけです。若い世代はもうこんな文化抑圧はいやだという。しかし宗教にこちこちの人たちは、いや断固としてその伝統を守れっていって、そのせめぎあいが、選挙のたびに非常に微妙な動きを示しているわけです。実際問題としてね、その間に微妙に情勢が変わってきております。五年ほど前に私と家内でテヘランに行ったときにね。その当時の大統領のお嬢さんから招待されまして宴会に行きましたら、家内が呼ばれてね。大統領のお嬢さんに拝謁を仰せつかったんですけどね。うちの家内は真っ黒い衣装に黒いベールをかぶって行ったわけです。そしたら(笑)そのえらいお嬢さんが何を言うかと思ったら、「あなた、どうしてそんな真っ黒な格好をしているの?」と言われましてね。「いや、イランに敬意を表しまして」って家内が言ったらしいんです。私、遠くから聞いただけなんだけども。そしたら「外国人はかまいませんよ」って。そしてね、そのお嬢さんがチラっと見せたそうです。黒い衣装の奥が真っ黄色だった。実際は外国人だってだめなんですよ。街で変な格好をしてたら民警に密告されるんですから。ようするにね、そのお嬢さんの意図としては、形式上自分たちはまだイラン革命の状況の中にあるから、みんなベールをかぶって真っ黒い姿をしていなきゃいけないけども、自分たちだってもう本当はそうでありたくないんだ、もう少しちゃんと派手な格好もしたいんだと。けれども、これはチラッと見せるんだね。そしてね、外国人ならちょっとね、警察が捕まえても刑務所におくるってわけにもいかないから、外国人からもう少し大胆にやってくださいよっていう、そういうメッセージなんですよ。そんな風に状況は変わっております。

変わりつつあるイラン映画

実はこの間、私、福岡で映画祭をやっていて、イラン映画を三本上映したんですけども、その三本ともね、イランにおける女性の差別に対する抗議の映画でした。これはものすごい映画だった。特に『私は十五歳』っていう作品が傑作でしたけどね。これはジャーナリスト出身の監督の作品だったんだけど。イランでは、人目に付くところでデートしてると補導されるんです。前にその同じ監督が『スニーカーをはいた少女』っていう映画を作った。それはね、公園でボーイフレンドとちょっとデートしてたら、すぐ警察に補導された。それだけじゃなくて、彼女は病院に連れて行かれた。なぜか? 処女性の有無を検査されたんです。少女は非常に屈辱的な思いをして、そのひと晩、街を歩き回ってね。そして、どうして自分はそんないやな思いをしなければいけないのかって、街をさまよっていろんな人と出会うというストーリーでしたけど。それはまだまだ序の口でした。

今度同じ監督が作った『私は十五歳』はね、少女がボーイフレンドにデートを申し込まれて、非常にまじめな少女だから、ちゃんと結婚するまではだめだって言ったらね、むこうには仮結婚という制度があって、お坊さんにまず認めてもらって、そして仮結婚という証明書をもらうとデートしてもいいんだそうです。しかし、それはまだ法律上の結婚ではない。そういう仮結婚というものをした上でデートしている。そしたらね、親の反対かなんかでね、やっぱり結婚ができなくなってややこしくなっているうちに、男はドイツかどっかに行っちゃって、それでもう会えなくなって、妊娠しちゃってると。周りの人は、子供はおろせっていうんだけども、いや自分は生みますって言ってね。父親は交通事故かなんかで刑務所に入れられていて、彼女はときどきその父親に会いに刑務所に行っては、私は今こういう状態ですってことを報告するんだけれども、父親もね、ま、おろしたほうがいいだろうと言う。しかし、おろすっていったってね、非合法ですからね。それはむずかしい。それでも、彼女は断固として生む決意をして、自分の先輩みたいなはねっかえりの女性から、子供を生むための心得などを学んだりしてね(笑)。はねっかえりの少女と仲良くなるわけじゃないんだけども、そういう状態だから、どうやって子供を生んだらいいかっていう知識もない。それでとにかく、断固として子供を生むんです。産んだらね、そのボーイフレンドの母親が自分のところの使用人と結婚させようとするんですけど、それも断固として断る。そしたら、ボーフレンドの母親が、子供がうちの息子の子供だという証拠はないというから、彼女は、裁判所にちゃんと要求して、血液鑑定の証明書をね、送らせるんです。裁判所も、それはもっともだって事で認めて、まだ外国にいるボーフレンドから血液鑑定の証明書を送らせてね、確かに彼の子供だと認知させる。それでもう相手の母親も折れて、じゃあ子供の戸籍を認めましょうということになるんだけれども、最後の最後に市役所に行って戸籍にサインをするときにね、相手の男の名前を書かないんです。ちゃんと認知させたわけだから父親の名前を書けばいいんだけれど、これ書かないと大変なことになるんですよ。何しろさっき言ったように、身分証明書がつねにものをいう社会であって、身分証明書がないと就職もできないっていう社会ですから。アフガニスタンからの難民がいっぱいいますから。何百万人もいるんですからね。身分証明書は大事でね。身分証明書に父親の名前がないってことは、その子供がどんなつらい生涯を送るか目に見えているわけですから。最後にね、父親の名前のところにも自分の名前を書くんです。自分のところにも自分の名前。ようするに、もう男には頼らないっていうね、強烈な意思表示の映画です。こういう映画をイランでは最近作れるようになった。今までは、ごくごく甘いヒューマニズムの映画が多かった。それでも非常に国際的に評判になったんだけれども、ようやく若い世代が増えて、もっと自由化したほうがいいんじゃないかという勢力が増えている。

なにしろね、あの国は貧しいですから、平均年齢が非常に低いんです。日本の三分の二くらいですよ。ですから、人口からいうとね、まだ革命から二十年ちょっとなのにもかかわらず、人口の半分がすでに二十歳ぐらいになっている。だから、選挙をやると、いつ政権がひっくり返るか分からない状態。したがって、体制側も、そういう映画を若い監督たちが作り始めるようになったのを認めざるを得ないという状態ですから、今、非常に微妙な状態ですね。つまり、ジャリリのようにあきらかに体制に反抗的な人間も彼の映画も、許可せざるを得ないというような社会情勢になっているわけです。イランはそんなにね、頭の固い国じゃないですよ。形の上では、そりゃあ反米という態度をとっていますけどね。ただ私は、イランは頭が固いほうがいいんじゃないかという気もしなくはない、なぜか? 今イラン政府はアメリカと妥協したがってしょうがないわけですよ。なんとかね、アメリカと友好関係を回復したいわけなんだ。だけども、アメリカとしては昔の意地があるからうけつけない。悪の枢軸のひとつだなんて言ってるわけですね。イランとしてはアメリカと和解したいわけです。だけどね、アメリカと和解して困ることがある。私は映画人としてそれを非常に危惧しています。和解したらアメリカ映画がどっと入ってきます。今はアメリカ映画は検閲で上映禁止にしてるわけじゃないけども、事実上、上映できる作品というのは殆んどないわけです。キスシーンどころか、男と女が手を取っただけで検閲で切られちゃいますから。とにかく、デートしてるだけで補導される国なんですからね。どうやっていったい恋愛ができるんだろうってことが非常に興味深いんだけども。そういうことをテーマにした映画が大ヒットしたりしています。ただアメリカ映画がどっと入ってきたとき、こういうタイプの映画が生き残れるかどうか、それが私の心配です。

アメリカナイズされるということ

世界の中でね、こういうまじめな映画をたくさん作っている国は、いまや世界中でイランだけだといっていいと思いますね。まじめでしょ? まじめだし感動的だし、そして妥協してないし、非常に優れた映画だと思いますよ。しかし、アメリカ映画がどっと入ってきたらこういう映画は生き残れるんでしょうか。私は、こういう映画ははじき出されるんじゃないかと思います。日本だって、まじめな映画を作ろうとする、わが日本映画学校の学生たちのような映画は、なかなか劇場公開できないですよ。でも、われわれはがんばって、19日からBOX東中野で、うちの学生が卒業制作で作った映画がちゃんとレイトショウで上映されますから。がんばればなんとかなるんですけどね、アメリカ映画の大洪水の中で、イランではこういう映画が毎年十本ぐらい作られてるんですから。もちろん、ほかのくだらない映画もありますけれどもね。これくらいのレベルの作品が毎年十本くらいはあるんですから、こんな国は世界中にはないです。こんなまじめな、小品で娯楽性は乏しいけれども、非常に精神的な輝きのある映画というのはね。しかし、アメリカ映画がどっと入ってきたときに、まず駆逐されるんではなかろうか(笑)、しかし、アメリカとイランとは和解してほしい。私はそのジレンマに悩んでおります。イランが好きですから。イランがこういう映画をいつまでも作り続けられるように。しかしそれはアメリカナイズされた世界では、大変難しいと。だいたいイランは、アメリカ映画を絶縁してからこういう映画を作れるようになったんですから。そんなことを言えば、ほかの国もみんなそういう苦心、苦労、苦悩を経験しているわけですから、べつにイランだけがどうってことじゃないんだけども。ようするにグローバリゼーションというのは、だいたいにおいて、結果として世界中がアメリカナイズされるってことであるってことがわかってきたわけですけども、映画でアメリカナイズされるということはどういうことかというと、やたらと物を壊す映画がはやるってことなんです。とにかくアメリカ映画っていうのは、やたらと物を壊すことで、すごいすごいってことになるわけですから。しかし、この映画も物を壊すか?(笑)あのー、いちいち車をパンクさせますね。やっぱり壊すんだな。壊すけども実に涙ぐましい壊し方じゃないですか。壊せば痛快だなんて、そういう堕落した精神はまだないです。命がけで壊しているわけです。ささやかな、ささやかな壊し方をやっているわけですよ(笑)。わずかなお金をもらうためにね。私がアジアの映画を一生懸命応援しているのは、アジアの映画はだいたいにおいてそうだからです。だけど、アジアの国も豊かになるとアメリカナイズされていきます。最近、韓国映画がものすごく元気がいいんだけれども、同時に、韓国映画も物を壊し始めるようになりましたね。アメリカ映画は、壊せば儲かるという哲学を世界に広げる。壊せば儲かるという哲学はもう時代遅れにならなければいけない、ということで私の話を終わります。

(拍手)

司会:ありがとうございました。(了)

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