浦さんのボルネオ

活動屋外伝 
  浦山桐郎ー1 
 

武重邦夫

カンポン・ムウラの朝は早い。
午前3時を過ぎるとニワトリ共がけたたましく鳴き始める。
東の空が白む頃には豚や牛や犬たちが騒ぎだし、人間の声も加わる。
こうした"ざわめき"はジャングルに太陽が顔を出すまで続く。
僕は、まどろみの中でこの"ざわめき"を聞くのが好きだった。
どこか"生きとし生けるもの"の朝を実感させてくれるのである。
「タケちゃん、マンデーに行こか!」
隣に寝ていた浦さんが毛布の間から顔を覗かせ独特の掠れ声で叫ぶ。
マンデーとは水浴のことで、住民達は朝起きると川へ行って身を清めるのを習わしにしていた。
村人全員が共同で住む高床式ロングハウスの入り口から100メートル行くとスクラン川に突き当たる。川は幅40メートル程の全域が浅瀬になっており、流れは緩やかで美しい。
「ええ気持ちや、命が洗われるわ・・・」
浅い川底に小柄な身体を横たえ、流れのマッサージを受けながら浦さんが心底幸せそうにつぶやく。
「まさに命の洗濯ですね・・」
いつの間に来たのか、カメラマンのS氏がのんびりした口調で相槌をうつ。  
本当にそうだと、僕は思った。
水は冷たく、悠久の流れが体内に溜まった文明の毒素を洗い去ってくれる。
時間のない世界へ来て、僕はやっと自分を取り戻せた気持ちになっていた。 昭和46年12月24日、クリスマスイブのスクラン川は陽光にきらめき僕と映画監督の浦山桐郎は素っ裸でマンデーを楽しんでいた。

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丁度3ケ月前、僕たちは英国風のたたずまいが残るクチンの町から出発してカンポン・ムウラにやってきた。
ボルネオの勇猛な首狩族といわれた"イバン"の記録映画を撮影する為である。イバンはダイヤ族に属し、スクラン川の流域に点在し焼畑農業を営んでいる。彼らの主食は主にタロ芋やサゴ耶子から取った澱粉だが、通過儀礼の祭事には鶏や豚や牛を食べる。
カンポン(村)へ入った当初、僕たちは夜中に首を狩られないよう警戒して寝たものだった。 それと云うのも、ロングハウスを案内された際に天井から吊された数多くの頭蓋骨を垣間見てしまったからであった。
頭蓋骨はススで汚れかなり古い年代のものに見えたが、恐ろしいことに処々に干からびた肉片が付着している。
「これは、ドクロですね・・」カメラマンが上ずった声で浦さんに尋ねる。
「そうや、山刀で一気に落とされたんだろう」
「痛たかったでしょうねえ・・」
「・・・・・・・」 浦さんは不愉快そうに黙り込んでしまった。
実際にはイバンの人達は農耕民族特有の温順な性格を持ち、人なつこい。
僕らに対しても極めて親切だった。
そうした事は彼らとの付き合いの中で次第に判ってくるのだが、最初はお互い何も判らなかったのだ。 そして運の悪いことに、僕らは人間に会う前に肉片に遭遇し内なる理性を失ってしまっていた。現代人の理性などはチリ紙より軽いのだ。
「酒は命とりになるから禁じます」
僕は一番気になっていた問題を口にした。
なにしろ、日本映画界の中でも3本指に数えられる"からみ酒"の浦さんなのだ。
酔えば目が据わり、相手にトンカツを皿ごと投げつけたエピソードは枚挙に尽きない。
被害に遭った俳優座の演出家は苦笑しながら頭髪に絡んだキャベツを取り外していたが、
果たして首狩族がそんな事で勘弁してくれるのだろうか?
「分かっとる、分かっとるって・・・」
浦さんは百も承知だと言うようにうなずいてみせる。
しかし、いかんせん、首狩族の中に俳優座の演出家らしき温厚な顔は見当たらない。
その晩、浦さんの寝顔をみながら、僕は持ってきたウイスキーを秘そかに中国人賄婦の部屋に運びこんだ。

カンポン・ムウラでの撮影は順調というか至極のんびりしたものだった。
彼らの生活は自然にそのものでゴーギャンが描いたタヒチの生活を想わせた。 赤道直下に在るが気候は温暖、太陽と水に恵まれているので日本農民のよう に刻苦勉励しなくとも結構食べていける。
おまけに昔のように部族間のトラブルや首狩戦争もないので、男達は持て余した時間とエネルギーを闘鶏に注ぐしかない。 総てが平和的なのだ。
浦さんは毎日がごきげんだった。 撮影の合間を見付けてはスクランの流れに身を沈める。
「イバンは平和だ、彼らは神様よ・・」
彼はいつしか首狩族を神様と呼ぶようになっていた。
毎日が平穏に過ぎて行くのが余程うれしかったのだろう。
「俺はな、山猫と虎に挟まれていつ刺されるか判らん毎日だったからな・・」
浦さんはケツケケと特有の笑い声をたてると、浮気がバレて双方の女性から受けた厳しいオシオキに就いて詳しく話してくれた。
山猫は淳子夫人で虎は気性の激しい愛人のことらしい。
僕はニヤニヤしながら2人の女性の顔を思い浮かべた。 なまじな男など足元にも及ばないド迫力を持った彼女達の葛藤の凄さが想像出来たからである。
多分、軽量級の浦さんは修羅場を収めきれず2人の間をヒラヒラ舞っていたの だろう。
ボルネオは彼にとって逃避行の末たどり着いたエデンの園であり、マンデーは心を癒すリハリビテイションであったに違いない。
それかあらぬか或は規則ただしい生活のためか、3ケ月の撮影期間中浦さん は一度として酒を口にしなかった。
彼の一生で唯一の" 酒断ちの日々 " だったのではなかろうか。

単調といえども、馴れてくるに従い生活の中の様々なドラマが見えてくる。
ある夜、食事をすませてロングハウスの長大な廊下に出ると大人たち全員が車座になり何やら真剣に会議をしている。
普段は食後の一服を楽しむ男達の談笑の場なのに、そんな雰囲気は毛ほどもなくピリピリした空気が漂っているのが異様だった。
ただ事では無いので早速カメラを据えて撮影の準備にかかった。
車座の中心には2人の女が座っている。 若い方は酋長の息子の嫁さんで、大声で喚きちらしてるのは60近い魔法使のサナウ婆さんだった。
通訳によれば、サナウ婆さんが嫁さんと喧嘩し非難罵倒した為に嫁さんが病の床に伏してしまったのだという。嫁さん側から酋長に訴えが出され今夜裁判が開かれたのだった。
「首狩族の魔女裁判とは素晴らしいじゃん」
通訳の話を聞いた途端、浦さんは喜色満面ほくそ笑みテキパキとカメラポジションを付け始めた。
ひさしぶりに見る映画監督浦山桐郎の姿はなかなか魅力的だった。
また、こんな事もあった。
朝、サナウ婆さんが産まれたての赤子を抱いて川岸に行くのでカメラを向けると頭ごしに怒鳴られてしまった。普段は気さくに冗談口を叩く婆さんなので不思議に思いながらも、僕らはカメラを持って執ように後を追っかけた。
川原に降りると、突然サナウ婆さんは手を振り上げ"来るな!"と叫んだ。
その声は途方もなく大きく、僕らは腹部に重いパンチを食らったみたいに動けなくなってしまった。彼女が金縛りの術をかけたのだった。
やむなく僕らはカンポンに引き揚げ、望遠レンズに切り替え撮影を終えた。
後で判ったのだが、サナウ婆さんが川原に行ったのは神聖な産湯の儀式を司る為であった。 赤子を疫病から守るのもまた魔法使の仕事なのである
その日、僕は落ち込んで食事もろくに喉を通らなかった。
魔法使に叱られたとはいえ、重要な儀式をロングショットでしか撮影できなかったからだ。 浦さんにも申し訳なくて顔向けできない気持だった。
ところが、意外なことに浦さんは機嫌がよかった。
「女は怖いもんじゃ、怖い々 」などと笑いふざけたかと思うと
「あのクソ婆、ありゃあボルネオの虎だ」と嬉しそうに一人納得している。
「ボルネオの虎・・・」僕は反復しながら何故か東京にいる2人の女性を思い浮かべた。 そういえば3人とも気丈夫で母性的なところが似ている・・
僕は一人悔やんでいた事が急に馬鹿々しくなり、部屋を飛び出しスクラン川へ飛び込んだ。

A

ジャングルに3ケ月も居るとさすがに現地食が鼻についてくる。
日本の味が懐かしいと誰もが思いだした頃、浦さんが部屋の隅に放置してた大型のトランクを引っ張り出してきた。
中を開けるとシャツやパンツがぎっしり畳み込まれていて何の変哲もない。
「これはな、山猫が作ってくれた魔法のトランクや!」
浦さんは衣類を片っ端から放り出すと、手品師のような手つきでトランクの内蓋を僕らに指し示した。
よく見ると小さなポケットが幾つも並んでいる。
浦さんはおもむろに1つのポケットを開けて小瓶を取り出した。
「美味しい美味しい花ラッキョウや、ケツケツケケ」
この日ばかりは浦さんの奇声も天の声に聞える。
僕たちは獣の如き歓声を上げ、瞬く間に夫人の心尽くしを平らげてしまった。
僕たちのラッキョウ記念日の始まりである。
梅干し、塩昆布、佃煮、塩うに、福神漬、のしいか、かりん糖・・etc  ときには熊の胆や仁丹が出てきて戸惑うこともあったが、淳子夫人の玉手箱は毎晩のように僕たちに日本の味や郷愁を運んでくれた。
塩昆布に感動し、福神漬に口角泡を飛ばし日本文化を論じた奇矯な晩餐会も いまになれば妙に懐かしい。

撮影終了が近くなった或る日、僕たちは強烈なスコールのお陰でMJBのコーヒーを手に入れることが出来た。
スクラン川を上ってきたアメリカ人が雨宿りのお礼に置いていったのである。浦さんも僕もコーヒーには目がない。
泥絵具のようなザラザラした現地のコーヒーに飽き々してた僕たちにとってMJBはまさに干天の慈雨だった。
「MJBは戦後民主主義の薫りよ・・・」
コーヒーが吹きあげ、独特な薫りが鼻をくすぐり始めると浦さんは目を細めてつぶやいた。
戦後の廃虚の中で青春を迎えた浦さん達にとって、アメリカ兵が運び込むキャメルやMJBは単なる物質でなく新時代への希望の光だったのだろうか・・
MJBのほど良い苦味を楽しんでいると彼は淳子夫人の玉手箱から何やら取り出して持ってきた。
「山猫の最後のプレゼントや」
彼が差し出したのは"柿の種"とピーナッツが同居したセロハン袋だった。
いわゆる"柿ピー"という奴である。
「コーヒーにはこれが一番だ。やってみい 」
「ビールのつまみでしょう」
「それが愚かな偏見というものよ・・」
「そうですかね・・」
僕は仕方なく偏見を口に放りこみ噛み砕いた。
「どうや・・」
「やや、意外だなあ・・」
確かに浦さんの言う通りだった。
コーヒーの苦味と"柿の種"のピリッとした辛味とピーナッツの芳ばしさが混じり合い、何ともいえない風味が口中に広がる。
「ええだろう・・」
「ええですな・・」
浦さんは黙ってうなずき、残り少なくなった愛好のピースに火をつけた。
スコールの去った夜のジャングルは涼気に満ち、時折り聞こえる虫の声が妙に切つなく胸をしめつける。
僕たちは無言のままコーヒーを飲み続けた。

昭和60年10月20日午前1時30分、映画監督浦山桐郎は心不全により突然この世を去った。まだ55歳の若さだった。
彼がこよなく愛したボルネオの村は開発され、もはや彼の遺したフィルムの中にしか存在しない。
                               おわり。

B

[後記] 
浦山監督が亡くなる1週間前、電話で呼ばれて上祖師谷の仕事場に行った。その日、監督は何時になく上機嫌で、「今度、タケちゃんにソーメンを作って食べさしてやるからな」等と言ってはしゃいでいた。 2時間ばかりお喋りして退散したが、今もって呼ばれた理由も解らなければ、ソーメンも頂いてない。あれから17年、謎は深まるばかりである。

○写真 @クチンの街での最後の打ち合わせ。 (右から、浦山、武重、通訳)
     A浦さんが神様と呼んだ、首狩族の末裔。
     B帰国後、浦さんが配った年賀状。(寝そべっているのが浦山、最後尾左から2番目が武重)

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