全身映画監督

活動屋外伝
 今村昌平−2

武重邦夫


「楢山節考」の映画の中に、村中の家から芋を盗んでいた雨屋の家族が生き埋めにされて殺される場面がある。脚本では、《村人たちが雨屋一家6人を簀巻きにして運び、穴に投げ込み埋める》くらいしか書かれていない。
10日後に雨屋の場面を撮影すると決めたとき、今村さんが私を呼び、「穴のサイズは2畳間程で2メートルの深さに掘ってくれ。村人たちは家族6人を穴に放り投げたらすぐ土を埋める。カメラは穴の手前20メートルの位置から俯瞰で狙う。ワンカットで撮るので、村人は60秒で土をかぶせ立ち去る。宜しく頼む」と言う。
「赤ん坊もワンカットの中で投げ込むのですか!」 驚いて尋ねると無論だと言う。
正直いって私は困惑した。メインスタッフを招集して相談するとみんな青ざめる。
大人はともかく、赤ん坊を2メートルの穴に放り込めば死んでしまうだろう。
それ以外にも問題は多々ある。スコップもブルトーザーもない時代の話だ。木製の鍬や鋤で掬える土の分量などは微々たるもので、2畳の部屋を土で満たすには1分どころか2〜30分は必要である。それに、投げ込まれた家族の逃げ出す横穴を掘れば、土は横に流れてさらに埋める時間は増えるだろう。
私たちは地元の農家や土建屋さんに加わってもらい協議を重ねたが、解決策は見つからない。撮影のスケジュールは刻々と迫り、今村監督と顔を合わせるのも辛くなる。

あまりの苦しさから、撮影が三日に迫った頃から穴を掘り実験を始めた。
うまくゆく根拠は何もないが、いても立ってもおられず、私たちはシミュレーションを繰り返していたのである。穴の底に隠れた助監督が赤ん坊に見立てたワラ人形を受け止める。しかし、穴の底からは赤ん坊の姿は見えずタイミングも掴めない。10回のうち8回は受け止めらるようになったが、1回失敗すればすべて駄目と同じである。
土を埋めるのも、道具を工夫し5分まで短縮出来たが、それ以上は進まない。
夜を徹しての実験も不可能の壁を破れず、残る時間は24時間しかない。

今日、駄目ならば、今村さんにコンテを変えて貰おうと決心したときだった。突然、私たち3人のスタッフの頭に同様なアイデアが湧き上がり、一瞬にして難問題は解決してしまったのである。それは全くの偶然だったが、知恵の輪が解けるように、原始的な方法で解決してしまったのである。(企業秘密なのでネタは明かせません。ご容赦を!)
無論、撮影は今村さんのコンテ通りに進み、スタッフやキャスト、エキストラの村の人たちの拍手と歓声のなかで撮影は無事終了した。


今村組の撮影では、こうしたことは常にあり珍しいことではない。
監督の注文に対して、初めから「出来ません、駄目です」というスタッフは一人もいない。スタッフたちには、今村監督が無理難題を持ち出したというより、監督のイメージを何とかして実現させてやりたいという気持ちが働くのである。
私は若いころ、こうした光景を見ながら、今村さんの人徳は凄いなと思っていた。
しかし、最近になって見方がすこし変わってきた。
つまり、今村昌平という人は、他者の能力の可能性に期待する気持ちが強く、半分は幻想と思いながらも挑戦させてみる…そうしたタイプの人だと判って来たのである。

"人間を信じ、可能性に期待する" これは今村さんの映画監督としての哲学である。
素晴らしい哲学だ。私は彼のこうした生き方は好きだし尊敬もしている。
しかし一方では、これは今村さんの片想いであり、人間に対する過信、もしくは、見果てぬ夢ではないかと思うこともある。
私は今村さんと40年近い付き合いだが、この間、今村さんが人を信じ期待しどれほど騙されてきたか…実際、厭になるほど見てきているのだ。
撮影所やプロダクションから見捨てられ、不遇を囲っている監督や老スタッフをあえて起用し散々な目に遭う。あるいは、自分の世界に閉じこもり頑固な石になった無能な助手を立ち直らせようと、海外ロケのスタッフに抜擢し失敗する。(優秀なスタッフたちがみんな行きたいと頑張っている…のにである)
それに活動屋ならまだしも、破産したボルネオ大将や破門された生臭坊主、サービス精神旺盛なサギ師、歌舞伎町の売春ホステスから親の旅館を食い潰したスケコマシの馬鹿息子と…思い出しても数え切れないほどのグウタラどもが今村プロに漂着し、おんぶお化けのように今村さんに纏わりついていたのである。
「イマヘイさんは魑魅魍魎が好きやからな…」などと映画監督の浦山桐郎は面白がっていたが、グウタラたちは半年もしないうちに確実に過ちを犯し、後ろ足で砂を浴びせ姿をくらますのが常だった。そしてその度に、今村さんは期待し励まし裏切られ、怒りの咆哮を発しながら尻拭いに奔走していたのである。


ここまで書いたところで…遠い日の或る光景が蘇ってきた。
幡ヶ谷のアパートの六畳間で、受話器を握り締めボソボソ話している26歳の自分自身の惨めな姿だ。そう、あれは確か「人間蒸発」という映画の企画書が書けず苦しんでいたときのことだ。「明日、企画書を持ってATGへ行くから」と今村さんに言われたにもかかわらず、約束の日を3日過ぎても企画書は書けず、後は辞表を書くしかないなどとブルーになっていた時の電話だった。
そのとき、今村さんが何と言ったか今では思い出せないが、叱られたり怒鳴られた記憶はない。推測でしかないが、多分「少し寝たらどうかね」と言われたのではなかろうか。

しかし、いくら師匠の言葉でも眠れるはずがない。多分、翌日まで徹夜して、私は5日目に企画書を書き上げ出社した。「おう、出来たか」今村さんは頷くと、企画書を鷲掴みにして自分の部屋へ引きこもった。10分くらいして戻ると、「どうかね」と赤ペンで直しを入れた企画書を差し出す。読んでみる…までもなかった。そこには、完璧なまでに生まれ変わった企画書が在った。
俺が5日間苦吟したものをこの人は10分で仕上げてしまう…。
いま思えば当たり前のことだが、若い頃はトラウマになりやすい。以後、私は臆病になり、自分で書いたものはなるべく今村さんの目に触れないように努めたものだった。

そう、何を隠そう。私もまた今村プロに巣くうダメ人間、魑魅魍魎の一員だったのである。
そして今村さんは、私が才能のない助手と判っていながら、愚鈍な青年の前に少しずつハードルを積み重ねてきてくれたに違いない。
不思議なことだが、私たちはハードルを与えられ、越える度に鈍い感性に焼きを入れられ、嗅覚を鍛えられ、少しずつだがクリエートする方法を学んできたのである。
実際、この歳になって自分の駄目さ加減を晒すのは気恥ずかしい。穴が在ったら入りたい気持だ。でも、見回せば私の周りにはダメ人間と思しき面々がうようよ元気に生きている。悲観するまい。決してマイノリティではないのだ。ダメ奴に期待を寄せる今村さんが悪いのである。


1975年、私たちは横浜駅の前に小さな映画の学校を設立した。
その後、学校は小田急線の新百合ヶ丘に移り、まもなく30年目を迎えようとしている。
かつて、魑魅魍魎がざわめいていた歌舞伎町の今村プロダクションはもはや伝説とでしか存在しないが、あの人間臭の漂う雰囲気は、かろうじて映画学校に受け継がれているような気がする。
それかあらぬか、今村さんは映画学校の理念に「人間に興味をもて」と謳っている。人間は善悪などで括れない混沌とした存在だが、愛すべき存在でもあるのだ。映画を創ろうとする者は、まず、その混沌とした存在に目を注ぎ、好奇の心を持って深く接する必要がある。人間を理解せず何の映画つくりがあろうかと…。
実際の理念書にはこんな難しいことは書かれていない。今村さんらしく"人間はスケベイな存在だと知れ"などと面白く書いてある。悪いのは筆力のない私の要約に尽きる。
つまり、今村さんはこういいたいのだ。映画監督たるもの、どんなに騙されても裏切られても決して人間に懲りてはいけないと…。無論、ご自身の貴重な体験に基づくものだ。

最近、今村さんは昔と違い映画以外の話をしなくなった。
ちょっぴり寂しい気もするが、75才を過ぎてなお映画に埋没している姿は頼もしく、人生と映画が見事に一体化している美しさすら感じてしまう。
以前、 原一男が井上光晴のドキュメンタリーに 「全身小説家」 とタイトルを付けたが、今村昌平もまた「全身映画監督」 と呼ぶにふさわしい映画人といえよう。                        
黒沢明、 新藤兼人、今村昌平…身体のどこを切っても映画が飛び出してくる。

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